Re: データ

  • 投稿No.43 元投稿No.42 宇佐木さんへの返信
  • 投稿者:せきたに
  • 投稿日:2021-08-11 08:44:01

> DFDRのデータには触れず主観的な見解が多く主張の意図がわかりません
> 外部からの衝突や撃墜説はデータから完全否定できます。科学的根拠に基づいての考察はされないのでしょうか?

宇佐木 さんへ

JAL123便が18時12分に羽田を離陸して後、墜落するまでに限ってですが、公開されたDFDRのデータに信憑性があると考えられますでしょうか?

信憑性がなければ、「データから完全否定できます」とは言えないはずです。

データ

  • 投稿No.42
  • 投稿者:宇佐木
  • 投稿日:2021-08-10 14:49:49

DFDRのデータには触れず主観的な見解が多く主張の意図がわかりません
外部からの衝突や撃墜説はデータから完全否定できます。科学的根拠に基づいての考察はされないのでしょうか?
ご遺族の方が最近のSNSに蔓延る123便フェイクニュースの後押しするような内容を公開する事が残念でなりません

18時30分に富士山の東側を通過したことに気付きにくい理由 その10(総括)

  • 投稿No.41
  • 投稿者:せきたに
  • 投稿日:2021-08-08 20:58:15

 18時12分に離陸後約8分間が経過しようとしていた。
 そろそろ水平飛行に近づこうとしていたタイミングでベルトサインが消えたことにより、客室乗務員が席を立ってミッキーマウスのグッズが配られはじめていた。生存者の川上慶子さんは妹と共にそのグッズを受け取っている。
 その頃機体の上部で〈パーン〉という音がして離陸後最初の異変が起きた。
 異変が起きたことによって、酸素マスクが下りてきた。その時の時刻は18時20分頃のことだったと思われる。
 
 「ただいま緊急降下中。マスクをつけてください。」と日本語と英語で流れました。マスクのつけ方は、となり同士教えあって、あんがいスムーズにつけていました。
 しかし、緊急降下中といっても、体に感じるような急激な降下はありませんでした。

 と落合由美さんの手記には記されている。

酸素マスクが下りてきて、装着がはじまり、「ただいま緊急降下中。マスクをつけてください。」というアナウンスが流れたが、実際には急降下はなかった。むしろ、酸素マスクが下りたことによって、機内で減圧が生じているかもしれないというパイロットの判断で、当初予定されていたいつもの高度まで上昇することはせずにしばらく様子を見ておられたのだろう。 

 総括すると、離陸後、最初の異変が起きて、酸素マスクが下りてきた。 乗客たちは酸素マスクを装着、その頃、「緊急降下中」というアナウンスが流れたが、体に感じるような急降下はなかった。
 そして東伊豆に近付いたところでニ回目の異変が起きた。
 『天命の陳情』という書物を著された村岡伸治さんはこのときに起きた異変はそのときの目撃情報から類推すると、外部から何かが衝突したのではなくて、機体の内部のおそらくは荷物室において油圧配管が破損してしまう程度の爆発が起きた可能性があると言われている。

 東伊豆、河津町のタクシー運転手、近持芳太郎さん(58歳)と渡辺武夫さん(51歳)は河津駅前のベンチで休憩中に、この瞬間を目撃した。
 「海側の北東上空で雷のような〈ボーン〉という音がした。見上げるとジャンボ機は機体後部から灰色の煙を出して駅の上まで水平飛行した。
(『疑惑 JAL123便墜落事故』(角田四郎著)の21ページ)

 上記目撃情報の中に記される
 「ジャンボ機は機体後部から灰色の煙を出して」
 というところ。
 機内爆発ではなく、外部からの衝突であれば、煙は衝突した場所に留まり、機体から遠ざかっていくばかりで、尾を引くような状態にはならない。

 更に、杉江弘さんが相模湾上空における外部衝突説を否定する論拠として次のように記される。

 「それでは、「謎の飛行物体」は、垂直尾翼に対して、横から当たったということだろうか。もし、横からなんらかの物体が衝突してきたならば、反動で機首は物体が飛んできた方向に向くはずである。」

 本来垂直尾翼はとても頑丈に作られている。そして、機体に頑丈に取り付けられている。 
 ということは、垂直尾翼に横方向から外部の物体が衝突すれば、かならず機体そのものを押す働きが生じるはずだ。外部からの物体が飛行中の機体の尾部に衝突すれば、尾部は横方向に押され、反動で機種は外部から飛んできた方向に向く。これは杉江弘さんのご指摘通りだ。押す働きなしに、垂直尾翼だけが破壊されるということは考えられない。

 ところが、客室内にいた落合由美さんの証言は、
 「このときも、荷物などが飛ぶということもなく、機体の揺れはほとんど感じませんでした。」

 とあるので、垂直尾翼に横方向から物体が衝突し、その衝撃で垂直尾翼の半分以上が失われたということはおおよそ考えられない。

 伊豆半島を北上後、ライフベストの装着がはじまり、ライフベストの装着の完了したときのタイミングで富士山の東側を通過したものと思われるが、その間の機体の位置は一貫して雲の上であったが、高度7,000メートル付近というのではなく、富士山の頂上よりも少し上ぐらいの高度で、具体的には東伊豆の河津駅のあたりからはいつもの倍ぐらいの大きさに見えたという程度の高度を保ちながら北上したものと思われるが、富士山の東側を通過するまで、途中急降下はしていない。

 そうすると、村上良平さんの書き残された

 18・30 急に降下中 

 と記されている箇所は必然的に富士山の東側を通過したあたりで、乗客の大半が安全姿勢を取った直後のことであったと思われる。

 (18時30分に富士山の東側を通過したことに気付きにくい理由 完)

 日航123便墜落事故:事故調査への疑惑と真実の追究 (その 3)  ― 旅客機墜落事故の初歩的で 且つ原則的な調査方法―

  • 投稿No.40
  • 投稿者:8.12連絡会 『日航123便墜落事故調査 分科会 会長 遺族 小田周二 
  • 投稿日:2021-08-04 10:50:45

旅客機の墜落した現場は 目も当てられない惨状で、分解した遺体に慣れた自衛隊すら、目を背けるほどだ。
  旅客機が 墜落する時は、10,000mも高度から、音速に近い速度(10,000k/h)で地面に激突して 機体だけでなく 人間も分解され、破壊され、粉砕され、バラバラになる。 悲惨だ。
乗客の氏名は 名簿で分かっているが、検視による遺体の判別は困難を極める。1985年 36年前では DNAによる検視判断は使えず、血液型、歯形、服装が主流であり 頼りだった。 
 事故調査も内部故障の場合は、残骸、CVR、DFDRだけで、墜落の事故原因を見つけ出すことは困難である。故に、通常の一般的な事故、事件での殺人事故とは 事故調査方法は 全然大きく異なる。 
即ち警察による地道な捜査、調査のよる解決とは 基本的に異なる。証拠とか、被害者との関連での加害者の捜査とかは 役に立たない。即ち 旅客機の墜落事故の調査は、CVR,DFDR,残骸、生存者証言、目
撃証言、関係者証言などから、墜落の原因である可能性の高い事象、異常事態を「仮説」として類推して、それを発生事象と検証して行く方法が 使われる。即ち、仮説を立てて、それを検証するとの手順であり、
検証で成立しない場合は 次の仮説に移行して合致するまで、何回も繰り返し、真実に迫るのである。
 *上野村の険阻な山岳地帯で墜落して、乗客乗員520名が死亡した世界最悪最大の事故について、航空局による事故調査が 始まった。   この明確な証拠がなく、仮説を立てて、検証するとの手順での事故調査、捜査を進める上での重要な経験的科学的な金言、格言がある。 
それは、「事故、事件は 偶然の産物でない。連鎖的な出来事の結果である」
       「墜落は 異常事態が発生して、操縦不能になり、急降下して地面に激突する事象」  
       「墜落を引き起こす異常事態を 墜落の事故原因と 命名される。」
「事故調査は、この墜落を引きおこす異常事態を特定する行為である」
「この異常事態が発生すると 旅客機が 1分以内に 墜落する」  と。

   通常、日航123便の墜落事故は、18:24 123便がその重要な垂直尾翼の破壊事象から、調査がスタートになる。そして 遺族小田も、この手順で調査し、著書に調査分析し結論を記載している。この垂直尾翼
破壊事故は 墜落事件の端緒なのだ。「垂直尾翼」と「油圧装置」の破壊から、32分飛行の末、墜落までの経緯を逐次調査することは、実は調査の基本から、見ると正しい手順ではないと判断出来る。
即ち 掛かる手法は 本末転倒の方法だと言える。勿論、この手順でも、事故調の『隔壁破壊説』も 成立しないことを証明出来たが、真実を究明する立場から、言うと、それは 真実の隠蔽を考える加害者に
とって、真実を隠蔽し誤魔化す機会が増える絶好の手法になっていた。
*逆に、結論は 墜落した場所から、遡って事故調査を行う手法が、基本的に正しい手順であるのだ。
これは、前に記述した格言:「墜落は異常事態が発生して、1分以内に起きる。この異常事態が 墜落の事故原因である」との墜落事象から、見ると、墜落した場所、時間帯、時点から、逆算して調査捜査する方が 旅客機の異常事態に早く接近出来るのである。 ここから、米国など墜落事故の先進国では、墜落場所の機体残骸が全身満足の状態であったかを調査する。このために、バラバラの無数の残骸を全部調べるのは、時間が掛かるので、機体の四隅を調べるのである。
即ち、具体的には 先頭の操縦席、主翼、エンジン、垂直尾翼、APU,水平尾翼などの四隅を調べるのだ。 これで、四隅が 機体が墜落するまで、健在であれば、機体は 主要な保安部品が健在であり、内部の故障に 重点を置いて、調査を進めるのである。
この手法を用いれば、国、事故調査委員会が見逃した墜落の事故原因が明らかになり、国の「隔壁破壊説」なる偽説を否定出来、不必要で 余計な議論を避けることが出来るのである。
*国、事故調査委員会の「事故報告書」に記載されているように、墜落直前には、1分以上前に重要な保安部品である「垂直尾翼」「水平尾翼」「第4エンジン」「APU」が破壊され、脱落していたことが分かる。
これでは、日航123便事故機は金属の塊であり、操縦出来る旅客機でなく、操縦不能であり、墜落は必死であり、墜落したことは 技術的に、論理的に説明出来る。且つ これらの保安部品は 通常の飛行状況では、破壊し脱落することはあり得ぬことで、外部からの衝突での破壊によることしか発生しないことは明白で証明出来る。 この重要保安部品の内、「垂直尾翼」、「油圧装置」「APU」は 18:24に破壊されたことは、CVRの記録で確認出来、その後 事故機は飛行の継続が出来、何らかの操縦技術で飛行したことが推測出来る。この理由については 別途後述する。
一方 事故機は30分以上も飛行出来、18:55:45機長らは驚愕の声を上げ、同じ時刻に乗客のスチュワデス:落合由美氏は、物凄い衝撃で400トンの機体が物凄く横揺れしたことと その後、物凄い急降下したことを体験し、その後 墜落したと証言している。この発生事象は、墜落事故発生時、日航副社長:町田直が押し掛けた遺族に「日航機は、ミサイルで撃墜されたんだ」との告白に完全に一致する。
この町田直は、運輸省の最高幹部:元事務次官であり、自衛隊、政府の極秘情報に近づける人物であり、1971年全日空機雫石戦闘機衝突事件で、事件の捜査に当たっており、自衛隊の責任と総理の辞職を救った人物であることから、証言の信憑性は確かだ。
* 従って、事故機は上野村の領域に入った段階で、何らかの飛行物体の衝突で、「右第4エンジン」は破壊され、右旋回を続け 直ぐに物凄い急降下に墜落に移行したと推察出来、発生事象と合致する。
 この急降下事象は 脱落した「水平尾翼」の破壊脱落による墜落事象と一致する。
このように 123便墜落の事故原因は「第4エンジン」と」「水平尾翼」が外部からの攻撃で破壊、脱落したことだとの結論が導かれるのだ。 尚、墜落地点での機体の残骸分布は、事故機の墜落状況と機体の破壊状況、飛行墜落角度などを推察出来る重要な証拠となる。又 日航事故機が脱落させた残骸は 必ず、重力で真下に落下するので、飛行経路上の位置に落下する。 事故調は 事故機がU字溝を作った折、その「水平尾翼」が真横に500mも飛行したとの説明は 成立しないことは科学的に立証できる。
 *これで航空局、事故調の「隔壁破壊説」は日航123便の墜落原因との結論が成立せず、前橋地検の不起訴判断は、適切な判決であったと帰結出来る。航空局が 「航空局は加害者でない」「この根拠は 前橋地検の不起訴判断だ」との文書は 真実であり、国は 長い期間 30年以上も 遺族国民を騙したことを自供しているのだ。
 

Re: 無題

  • 投稿No.39 元投稿No.38 宇佐木さんへの返信
  • 投稿者:管理人[ 管理者 ]
  • 投稿日:2021-07-30 21:28:59

> 元ご遺族の投稿拝見いたしましたが墜落原因について科学的アプローチされているのか甚だ疑問です

> こちらの掲示板が反論を許さず不適切と判断されるのでしたら削除いたします

管理人です。

宇佐木様、ご投稿ありがとうございます。

この掲示板はいろんな考え方があることを尊重し、それぞれがざっくばらんなご意見を述べ合っていただくことを願っている掲示板でございます。

ぜひとも他の方の投稿に関して疑問を感じられる箇所があれば率直な意見を聞かせて下さい。

無題

  • 投稿No.38
  • 投稿者:宇佐木
  • 投稿日:2021-07-30 19:20:00

元ご遺族の投稿拝見いたしましたが墜落原因について科学的アプローチされているのか甚だ疑問です

こちらの掲示板が反論を許さず不適切と判断されるのでしたら削除いたします

日航123便墜落事故:事故調査への疑惑と真実の追究 (その 2)  ―旅客機墜落事故の調査機関とその業務の実態―

  • 投稿No.37
  • 投稿者:2021.7.24  8.12連絡会 『日航123便墜落事故調査 分科会] 会長 遺族 小田周二 
  • 投稿日:2021-07-28 21:35:45

一度、旅客機が墜落して多数の乗客乗員が死傷すれば、1980年代 日本では 運輸省、「事故調査委員会」の出番である。 この事故調査機関として、米国では、有名な「NTSB」がある。この事故調査機関が設立されたのは、1956年6月の旅客機2機の空中衝突事故が端緒であった。 2機の旅客機がグランドキャニオンの観光飛行で空中衝突事故を起こし、129名が死亡した。この時代は、航空行政は無く、会社単位の無線での交信による連絡で行われ、勿論航空管制はなかった。この調査は一人の航空専門家が調査し、ほぼ完璧な調査が行われ、どのような角度で衝突し、その責任まで、特定されている。米国人の科学的、技術的な調査は、この時の調査は とても、日航123便での事故調査とは 格段の差があった。NTSBは 1967年設立で 大統領直属の独立行政機関。
*日本の場合は、1971年の全日空機雫石戦闘機衝突事件が端緒で、その反省として、1974年に「運輸事故調査委員会」が設立されたが、運輸省の外局であり、独立した機関でなく、内局の「航空局」の支配下に
あり、独自に調査の権限はない。この形骸的な調査組織が日本に、旅客機墜落の事故調査に暗黒の暗雲が立ち込め、現在至っている。
*日本の航空行政を司るのが、運輸省の「航空局」でその業務は(航空会社の設立、運航路線、運賃、航空機の就航、修繕機の飛行許可、修理などに対する許認可、操縦免許交付、空路管制など)あらゆる面に
及ぶ。これらの許認可権限などを駆使した航空行政は、「乗客が目的地まで安全に到着すること」が第一の目的であるという。この安全運航の破綻が 旅客機の墜落による多数の乗客の死亡なのだ。この時にも、
航空局は 先頭に立って、事故原因の究明に立ち向かう。それは事故原因を明らかにして、航空安全のために、再発防止策を策定するためであるのだ。掛かる場合、航空局は 事故調査委員会に出動と、事故原因の
調査を行うことを命じるのである。
*掛かる調査体系での事故調査委員会の調査実績は、角田四郎氏の著では「日本の墜落事故の原因は事故原因が不明か、パイロットの操縦ミスになってしまう」と記述されている。即ち、事故原因が製造会社、運航
会社とか まして国、航空局などが 提起されたことはないのだ。 その上、事故調査の進め方について、山名正夫東大正夫教授が 「主席調査官が二人も更迭され、先ず、求めるべき結論が決められている」と
して、辞任しているのだ。(羽田沖墜落事故、昭和41年2月4日、発生、133名全員死亡)
 この経緯から、独立性のない事故調査委員会は、航空局の指示で、先ず結論を与えられて、結論に合わせて事故報告書を作成する傀儡組織であることが 分かるのだ。
*この理由は明白である。事故報告書は 公文書であり、担当の大臣が、即ち、運輸大臣が受理することが不可欠の条件なのだ。最近、金融庁が 「会社員が退職した後、年金以外に 2,000万円が必要」との
調査結果を纏めて、財務省に提出したが、麻生財務大臣が この受け取りを拒否して、公文書とならなかった事態が発生しており、担当大臣の認定が不可欠であるのだ。勿論,各大臣は総理大臣から指名されて
おり、当然、総理大臣が認めることが 不可欠なのだ。
*この形骸的な事故調査システムから、作成された「事故調査報告書」を分析して、実証する。
事故調査は墜落の事故原因を特定することが目的である。然し、日航123便墜落事故では、その報告書には この墜落の事故原因が特定されていない。前橋地検も「事故原因が解からい」と結論している。
その上、墜落の事故原因が発生してから、墜落するまで、1分以内というのが業界の定説で、日航123便が(垂直尾翼)と(油圧装置)が破壊され、脱落したことが 事故調の事故原因だとの結論は 事故機が
 その後  30分以上飛行出来たことで、垂直尾翼と油圧装置の破壊は 墜落の事故原因でないことが明白になった。
更に、事故機は墜落の危機に陥ったが、機長の必死の新規操縦技術の開発で操縦出来たこと、そして、横田基地に着陸を申請した事態のアントヌッチ中尉の証言、川上村レタス畑への不時着敢行で、操縦性と着陸
 性が 実証されたこと、日航123便は墜落前、45秒前に「水平尾翼」「第4エンジン」が破壊脱落しており、「日航123便の 墜落の事故原因は この(第4エンジン)と(水平尾翼)の破壊脱落である」ことが
結論出来るのである。
*国は「自衛隊の(標的機の日航機への衝突)なる不祥事を隠すための乗客、乗員全員の口封じの全員殺害事件」を「機体の故障による墜落事故」に変更し捏造した内容が 運輸省の「墜落事故報告書」となったの
  である。掛かる噓の 日航123便墜落事故の調査報告書(1987.7)は 日本国の公文書の資格がない。航空局は 意図的に再調査を不作為しているが 123便墜落事故の再調査を行う責務があり、遺族として
  犠牲者の名誉のために 公式に再調査を要求する。

新刊書の紹介

  • 投稿No.36
  • 投稿者:管理人[ 管理者 ]
  • 投稿日:2021-07-21 21:15:34

犠牲者遺族であり、8.12連絡会墜落事故調査分科会会長の小田周二さんが
『永遠に許されざる者』(文芸社 2021年7月15日 初版第1刷発行)
という書物を刊行された。

書物は
「墜落死の真実」を貴方方乗客乗員の霊前に報告する。

という言葉から始まる。

事故調査委員会が当初主張していた圧力隔壁損壊説はこの書物によって徹底的に論破されており、その先は自衛隊がどのようにこの墜落事故に関与していたのかについての自説が展開されている。

B5版で416ページの書物は手に取ってみるとずっしりと重く、内容は力作である。

18時30分に富士山の東側を通過したことに気付きにくい理由 その9

  • 投稿No.35
  • 投稿者:せきたに
  • 投稿日:2021-07-05 22:03:24

『疑惑 JAL123便墜落事故』(角田四郎著)86ページには
生存者の一人、吉崎博子さんの証言が記されている。

 「ドーンとものすごい音がして眼がさめました。同時に、白い煙がパアーッと入ってきます。なにがなんだかわかりませんでしたが、酸素マスクが上からおりてきたので、緊急事態が発生したことは理解できました」

 この証言も18時30分に富士山の東側を通過したことに気付きにくい理由となっている。

 吉崎さんの証言内容通りだとすると、酸素マスクがおりてきたのと、白い煙が客室内に入ってきたのがほぼ同時であったということになり、そのことが意味するところは、離陸後、初めての異変によって酸素マスクがおり、白い煙がほぼ同時に発生したことになる。

 ところが、酸素マスクと白い煙に関する記述に関する事柄について、落合由美さんの証言は少し違う。

 離陸後、しばらくして、(おそらくは客室乗務員によって子供達に向けてミッキーマウスのぬいぐるみが配られていた頃)〈パーン〉という音とほとんど同時に、酸素マスクが自動的に落ちてきた。となっているだけで、そのときの〈パーン〉に付随して白い煙のことについては言及されていない。
 一方、白い煙のことについては、以下のように記しておられる。
 
 「やはり〈パーン〉という音と同時に、白い霧のようなものが出ました。」

 注意深く次の箇所を読むと、文中、「そのときは」と記されている、「そのとき」というのは離陸後二回目の〈パーン〉の時である。

 「はじめはスチュワーデスもそれぞれの席に座って酸素マスクをしていましたが、しばらくして、お客様のマスクを直したりして、まわっていました。そのときは、エキストラ・マスクをひっぱって、口にあてていました。」

 落合由美さんの証言によると、酸素マスクがおりてきたときには同時に白い煙のようなものは発生していない。酸素マスクの装着が終わった頃にもう一度異変が起きて白い霧のようなものが発生したと記されているので、酸素マスクがおりた時刻と白い煙のようなものが機内で目撃された時刻とには一定の時間差があったものと考えられる。

 いずれの証言も貴重なのだが、吉崎博子さんの証言と落合由美さんの証言とを比較してみると、酸素マスクがおりてきたときと白い煙が入ってきたタイミングについて、一致していないものと思われる。

 ただ、次の証言は、河津駅のあたりから、〈ボーン〉という音と共に相模湾上空を飛行するジャンボ機がふだんの二倍近い大きさで目撃されたということが、そのときの異変が離陸後初めてのものではなかった可能性を示唆しているものと思われる。

(『疑惑 JAL123便墜落事故』21ページ)
 河津駅の北西の山側で畑仕事をしていた同町役場職員渡辺穣さん(45歳)の証言は
「午後6時半前、ボーンという音で上空を見た。雲の切れ間からジャンボ機がふだんの二倍近い大きさで見えた。」

(その10に続く)

Re: 日航123便墜落事故と事故調査への疑惑と真実の追究 (その一)

  • 投稿No.34 元投稿No.33 日航機墜落事故犠牲者の遺族 小田周二さんへの返信
  • 投稿者:管理人[ 管理者 ]
  • 投稿日:2021-06-30 22:45:35

> *遺族小田は、2015年に『日航機墜落事故 真実と真相』を、2017年に「524人の命乞い」を出版して、
> 国民に、「墜落事故の加害者は 自衛隊である」ことを提起している。墜落事故でなく、事件だと帰結出来るのだ。 

小田周二様、掲示板への投稿ありがとうございます。

 墜落事故によってご子息と長女を一瞬で亡くされてしまった、ということは本当にご愁傷様でございます。悲しいことでそれ以上何とも言葉を紡ぐことが出来ません。

 小田様の投稿文に関連してですが、『疑惑 JAL123便墜落事故』の中で著者の角田四郎さんも以下のように記されています。

 「日航123便墜落事故」は、言われているように単なる「事故」ではないのだ。明らかに「事件」と呼ばれるべきものを内包している。
(418ページ)

 そして、犯人を連想させるのは
 墜落事故当日の夜、羽田空港で遺族達に詰め寄られた日航の重役が思わず語ったとされる言葉として、
 「うちの機は、北朝鮮のミサイルに打ち落とされたんだ。今はそれしかわからん!!」 
(115ページ)

 私の推測した「疑い」が間違いなら、現実に現れている事象はどう考えればよいのか?
 間違っていないなら、この事故の背後に一体なにが隠されていて、事故の全てを歪曲し、全く成立し得ない原因をデッチ上げ、墜落地点と機体を半日以上も隠し、不都合な証拠物件の全てを隠蔽、消去して外国の企業たるボーイング社にまでその手助けをさせる巨大な力が存在したことになる。 
(397ページ)

という記載があります。

 小田様の見解では日航機墜落事故は事故ではなく、事件であり、自衛隊が事件を起こした加害者であったとはっきりと記されていますが、自衛隊というと、隊員の佐間2曹が川上慶子さん(当時12歳)を抱えてヘリコプターにつり上げられている姿が多くの人の脳裏に鮮明に焼き付いているのではないかと思われ、その自衛隊が事件を起こした加害者であったと仰られると信じ難い気持ちが起きてまいります。

 小田様は独自の思惟を積み重ねられた結果、事件の加害者が自衛隊であったという結論となられているようで、それを否定するものではございませんが、一般的には、まさか自衛隊が自国民を積極的に殺すようなことは企てないだろうという強い先入観があるのではないかと考えます。

 小田様にはぜひとも今後の投稿をいただける場合に少しずつで結構ですから、そのように結論付けざるを得なくなられた根拠やプロセスについて誰にでも理解できるように記していただけると幸いでございます。

日航123便墜落事故と事故調査への疑惑と真実の追究 (その一)

  • 投稿No.33
  • 投稿者:日航機墜落事故犠牲者の遺族 小田周二
  • 投稿日:2021-06-29 22:09:58

 8.12連絡会 「日航123便墜落事故調査分科会 会長」として、説明する。
 小田は 日航123便墜落で、愛する子供達、浩二(15歳、高校1年,陽子(12歳、中学1年)の
二人を一瞬にして失った。そして、事実 「520名は 殺された」ことが明確に認識出来た。
遺族は 肉親の死亡事態に衝撃を受け、悔悟と供養に没頭してきた。あまりにも強い衝撃で、遺族には
人生が閉ざされた気持ちになったのだ。
墜落の事故原因などについては、事故状況、証拠、多くの状況証拠は、全て、国、運輸省、自衛隊が所有し、
我々遺族、国民への開示はないのが実情である。まして米国にように、途中で、進捗を公表することのなく、全て
秘密処理がなされているのだ。(今後の事故調査の運営上、改善すべき課題)
まして遺族は掛かる墜落事故に遭遇することはなく、事故の経験、知識もないのだ。事故調査は 被害者である遺族が 行うことは正しく行えないことを考えると、関与を行わないのが 原則である。
然し、事故でなく、国、自衛隊が関与した事件の場合は、事故原因が不明で 国が隠蔽した時には事故遺族の出番が必要になるのが 現状なのだ。
*事故から、20数年経過したが、区切りの、けじめの30年の期限が直ぐ近くに迫っており、遺族小田は、ある事故遺族の活躍に啓発されて、事故の真実を明らかにしようと決意したのである。
 それは、ユナイテッド航空UA811便の貨物室ドア脱落事故で、乗客9名が吸い出されて、死亡した事故で、
この貨物室のドアの破壊脱落の原因は米国NTSBが「作業員が取り扱いミスとの結論を出した」が、この事故  
で 愛する一人息子を失ったケビン・キャンベル夫妻は 途中の尋問で得た資料から、結論に疑問を抱き、本格的に調査と研究に奔走して、技術者キャンベル氏は「ドアのオリジナル設計上のミス」との結論をNTSBに 提出して、再調査を要求した。NTSBは、この提起を受けて、太平洋の海底、4,200mから、ドアを引き上げて、調査して、「電気系統の欠陥である」との結論に至ったのだ。
 当のキャンベル夫妻は、「息子の死を無駄にしないためにも、事故原因を徹底的に調査して、811便の事故の真実を明らかにする。これは 二度と同じ事故を引きおこさないためには 不可欠である。遺族は真の事故原因として、亡き肉親の墓前に報告することが 最大の供養である」と語っており、犠牲者への心情溢れる。遺族の崇高な明言であった。 この言葉に触発されて、遺族小田は 忽然と真実の追及に立ち向かったのである。
*遺族小田は、2015年に『日航機墜落事故 真実と真相』を、2017年に「524人の命乞い」を出版して、
国民に、「墜落事故の加害者は 自衛隊である」ことを提起している。墜落事故でなく、事件だと帰結出来るのだ。 次回は 事故の調査、飛行、墜落などについて、説明を予定します。 
 

18時30分に富士山の東側を通過したことに気付きにくい理由 その8

  • 投稿No.32
  • 投稿者:せきたに
  • 投稿日:2021-06-27 22:46:12

 18時40分過ぎという時間帯に大月という場所の上空を大きく円を描きながら低空で飛ぶジャンボ機が角田四郎さんによって目撃されている。

 18時30分に富士山の東側を通過したのだとすれば、そこから大月までどうして10分以上もかかっているのだろうか。

 犠牲者 河口博次さん(52歳)の遺書

 飛行機は まわりながら
 急速に降下中だ

 富士山の東側を通過するとき、機体は大きく横方向に大きく揺れていた。
 その後、すぐではないかもしれないが、大月上空に至るまでのところで、機体は円を描きながら、ということは前進した箇所と後退した箇所があったことになり、螺旋状の軌跡はを描いて降下しながら大月に近づいて行ったので、まっすぐ飛行するときの倍ぐらいの時間がかかったものと思われる。

(その9に続く)

Re: 事故ではなく事件だ

  • 投稿No.31 元投稿No.30 佐藤スポーツ整体さんへの返信
  • 投稿者:管理人[ 管理者 ]
  • 投稿日:2021-06-17 22:49:32

佐藤スポーツ整体さん投稿ありがとうございます。

> 2)プラザ合意に反対していた関西の財界大物4名
> 3)グリコ森永の実行犯
> 4)松下トロンOSの技術者17人

墜落した旅客機にはそのような人たちが乗っていたのですね。

ひとつ質問をさせていただきます。

一般的には墜落した旅客機には
2)プラザ合意に反対していた関西の財界大物4名
3)グリコ森永の実行犯
4)松下トロンOSの技術者17人
のような人たちが乗っていた。

という表現を取るのが通常ではないかと考えますが、

佐藤スポーツ整体さんの投稿文では

あの墜落事故は
2)プラザ合意に反対していた関西の財界大物4名
3)グリコ森永の実行犯
4)松下トロンOSの技術者17人

といった人たちを殺すのが目的だった。
と表現されているわけですが、

そうすると、墜落事故を仕組んだ側にとっては、その人たちが一緒の飛行機に乗り合わせることがあらかじめわかっていたということになりますが、そういう解釈で合っていますでしょうか?

事故ではなく事件だ

  • 投稿No.30
  • 投稿者:佐藤スポーツ整体
  • 投稿日:2021-06-17 12:36:05

池田昌昭さんから紹介され、このサイトを見つけました。
当時の社会情勢からして怪しいと言わざるを得ない。
1)プラザ合意を呑ませるために中曽根を脅迫するため
2)プラザ合意に反対していた関西の財界大物4名を全員暗殺するため
3)グリコ森永の実行犯を殺害し証拠隠滅するため
4)松下トロンOSの技術者17人を抹殺するため
5)JAL123便が核弾頭を輸送していることを米軍が突き止め、ミサイルで攻撃した
6)核弾頭輸送を隠蔽するため、自衛隊は日航機を御巣鷹山までおびき寄せ撃墜した
7)JAL123便の生存者は数十名以上いたが、ほぼ全員VX毒ガスなどの手法で殺された
知られたら困るから隠蔽したのです。

18時30分に富士山の東側を通過したことに気付きにくい理由 その7

  • 投稿No.29
  • 投稿者:せきたに
  • 投稿日:2021-06-13 14:40:31

 落合由美さんの手記の中で、18時30分に富士山の東側を通過したことに気付きにくくさせている最大の理由はおそらく次の箇所だろう。

 「そのうちに酸素が出なくなりました。いつだったか、私がフライトをしていたとき、お客様から、酸素マスクは何分くらいもつのか、とたずねられたことがありました。全員が吸った場合、18分くらい、と計算したことがあります。そのくらいの時間が経過していたのかもしれません。でも、ほとんどのお客様は、そのままマスクをしていました。」

 上記の記載があって、その後に富士山の東側を通過したことが記されているので、富士山の東側を通過したときには既に酸素マスクから酸素が出なくなっていたことは明らかだ。
 問題なのは
「全員が吸った場合、18分くらい、と計算したことがあります。」
と記されているころで、これをそのときのフライトにおいて実際に酸素マスクが18分間もったのだと解釈すると間違ってしまう。

 実際に酸素マスクが18分間もったと解釈すると、離陸後最初の異変が起きて酸素マスクが下りたのが18時20分頃だとしても、富士山の東側を通過したのは18時38分よりも後だったことになる。

 それで何が都合が悪いのかと言われるかもしれないが、犠牲者の村上良平さんは遺書に、

 機体が大きく左右にゆれている
 18・30 急に降下中 

と記されている。

 一方、生存者の落合由美さんは
 「飛行機はあいかわらず旋回をくり返すように左右の傾きをつづけます。振動などは全然ありません。とにかく、くり返し、左右に傾いているという揺れ方がつづきました。」

 と記されている箇所があり、その表現は

 村上良平さんの

 機体が大きく左右にゆれている

 の箇所とピッタリと一致しているが、落合由美さんはそのあたりを飛行しているときの情景描写として、

 「私の席に近い左の窓から見えたのは、まっ白な雲だけでした。かなり厚い雲で、地上は見えませんでした。」

 と記されている。

 更に、酸素マスクの装着に続いてほとんど間をおかずにライフベストの装着が始まったようだが、そのあたりでも
 
 「私は羽田にもどれればいいな、と感じていました。しかし、まだ雲の上で、高度も高いし、ちょっと無理なんじゃないかな、とだんだん不安になってきました。」

 と記されており、酸素マスクの装着からライフベストの装着がはじまるまで一貫して機体が雲の上にあったことが記されている。

 そして、その延長として、

 揺れはいっそう大きくなりました。もう立っていることはできないほどです。救命胴衣をつけ終わってすぐに、ほとんどいっせいに安全姿勢をとりました。

 とあり、その言葉に続いて

 「安全姿勢をとる直前、窓の外のやや下方に富士山が見えたのです。とても近くでした。このルートを飛ぶときに、もっとも近くに見えるときと同じくらいの近くでした。夕方の黒い山肌に、白い雲がかかっていました。左の窓の少し前方に見えた富士山は、すうっと後方に移動していきます。富士山が窓のちょうど真横にきたとき、私は安全姿勢をとって、頭を下げたのです。」

 という言葉が一連の文章として綴られている。

(その8に続く)

18時30分に富士山の東側を通過したことに気付きにくい理由 その6

  • 投稿No.28
  • 投稿者:せきたに
  • 投稿日:2021-06-08 20:48:33

 『疑惑 JAL123便墜落事故(角田四郎 著)』21ページには
 東伊豆、河津駅の北西の山側で畑仕事をしていた同町役場職員渡辺穣さん(45歳)の証言は「午後6時半前、ボーンという音で上空を見た。雲の切れ間からジャンボ機がふだんの二倍近い大きさで見えた。 
 と記されている。

 この証言から何がわかるかと言えば、上空を見上げたとき、ジャンボ機が雲の切れ間から見えたということは、東伊豆上空の空は晴れており、ところどころに雲が出ているような天気であったということ。そして、機体は雲よりも上の位置にあったことを意味する。更に、そのときの高度についてはふだんの二倍近い大きさで見える高度のところを飛行していたということだ。
 その場所を飛行するふだんの高度が地上7,000メートルぐらいであると言われているが、地上からふだんの二倍近い大きさで見えたということは、そのときはずっと低い高度を飛行していたことになる。 

 もう一つの疑問点は、その時点でどうしてふだんの二倍近い大きさで見えたのかという点だ。
 そのことを考えるとどうしても離陸後ベルトサインがはずれて客室乗務員が席を立ち、子供たちに向けて夏休みのキャンペーン商品であるぬいぐるみのグッズを配り始めたときのタイミングで起きたと考えられる異変のことが気になってくる。 
 
 落合由美さんの手記の中で、
「そろそろ水平飛行に移るかなというとき、〈パ-ン〉という、かなり大きい音がしました。」
 このとき、機体は水平飛行に近づいていたので、ベルトサインが消えたものの、正確にはまだ上昇中であったと思われる。
 離陸後一回目に起きた異変によって、客室内では酸素マスクが下りてきている状態だったので、機内で急減圧が生じている可能性があるかもしれないと考えたパイロットたちは機体を通常の高度まで上げずに、異変が生じた時の高度を維持し、そのまま二回目の異変が起きるまで水平飛行したのではないか。
 そうであればその水平飛行の間に乗客の大半が酸素マスクを装着したものと思われる。

(その7に続く)

18時30分に富士山の東側を通過したことに気付きにくい理由 その5

  • 投稿No.27
  • 投稿者:せきたに
  • 投稿日:2021-06-07 21:50:37

 東伊豆、河津駅の北西の山側で畑仕事をしていた同町役場職員渡辺穣さん(45歳)の証言は「午後6時半前、〈ボーン〉という音で上空を見た。
(『疑惑 JAL123便墜落事故 角田四郎著 21ページからの抜粋)

 とあるが、そのときの異変について、機内におられた落合由美さんは手記の中で次のように語っておられる。

 「やはり「パーン」という音と同時に、白い霧のようなものが出ました。

 はじめはスチュワーデスもそれぞれの席に座って酸素マスクをしていましたが、しばらくして、お客様のマスクを直したりして、まわっていました。

 このときも、荷物などが飛ぶということもなく、機体の揺れはほとんど感じませんでした。しかし、何が起きたのだろうと、私は酸素マスクをしながら、きょろきょろあたりを見まわしていました。」
(『墜落の夏』(吉岡忍著)から落合由美さんの手記の部分からの抜粋)

 紛らわしくさせているのは、落合由美さんが手記の最初の方で
「そろそろ水平飛行に移るかなというとき、〈パ-ン〉という、かなり大きい音がしました。」

という言葉の中で〈パーン〉と記されている音と、もう少し後で上記の

「やはり「パーン」という音と同時に、白い霧のようなものが出ました。」

と記されているところで、もう一度〈パ-ン〉という同一の言葉が使用されているところにある。

 文字にすると同じ言葉なので、一見最初の〈パーン〉と二度目に出てくる〈パーン〉は同一時刻に起きた音を繰り返し語られているように受け取ってしまいやすくなっている。

 ところがそうではなさそうだ。

 二度目の〈パーン〉のときには
「このときも、荷物などが飛ぶということもなく、機体の揺れはほとんど感じませんでした。」という文章は「このときも」という言葉から始まっており、その言葉はそのときに起きた異変が離陸後初めてのものではなかったことを表現している。

 また、そのときの付帯状況として、客室乗務員が「お客様のマスクを直したりして、まわっていました。」と併せて記されており、そうすると二度目の〈パーン〉のときには既に酸素マスクが下りていたことになるので、その時点(東伊豆、河津駅の上空)よりも前の段階で別の異変があったことが裏付けられている。

(その6に続く)

Re: JAL123便の飛行経路 (2)

  • 投稿No.26 元投稿No.25 池田昌昭さんへの返信
  • 投稿者:管理人[ 管理者 ]
  • 投稿日:2021-05-26 21:56:25

 池田昌昭様、投稿ありがとうございます。
 航路について、事故調査委員会発表のものよりも実際はもっとずっと東側を飛行していたのではないかということは『疑惑 JAL123便墜落事故』 (角田四郎著)の91ページにも著者の取材録が記されており、村上良平さんの遺書(18・45 機体は水平で安定して  18・46 着陸が心配だ)とも一致するので確からしいですね。

 「あの日は私の誕生日なので、よく憶えています。町の南側にある今熊山(八王子市美山町)の方向から、大きな飛行機が現われ、北北東の方向へ水平にゆっくり飛んでいた。秋川や町の上空を横切って日の出町方向の山へ消えました。五日市高校の上空あたりを飛んでいる様子でした。横田基地に降りると思いましたが、普段米軍機は低空でこんな所を飛ばないので墜ちるのでは・・・・・・と感じました。時間は午後6時45分頃の20~30秒間です。」〈東京都西多摩郡五日市町入野750-1 南澤輝明さん(35)会社役員〉(筆者取材)

 この証言は非常に大きな意味を持つ。地図上で見ると、日航機が羽田方向から北よりに向きを変えている時点の証言であり、ここが迷走飛行中の最東端地という証拠であるからだ。
 (書物からの引用は以上)

 上の目撃情報は富士山の東側を通過し、大月上空をループ飛行した後、横田基地の近辺まで行ったあたりのものでしょうか。

JAL123便の飛行経路 (2)

  • 投稿No.25
  • 投稿者:池田昌昭
  • 投稿日:2021-05-24 15:53:08

 JAL123便の飛行経路図を示してある『事故調報告書』137ページの「JA8119飛行経路略図」で最も不思議なのは、JAL123便が米軍横田基地に着陸しようと、横田基地の目前まで行っていたことになっていないことと、もう一つは、JAL123便が富士山の西側を飛行したことになっている点である。
ではなぜ、JAL123便が実際には、富士山の東側を飛行したにもかかわらず、事故調の「飛行経路略図」には、富士山の西側を飛行したことになっているのか。
 JAL123便が着陸しようとした米軍横田基地からJAL123便の飛行コースを離そう、離そうとしている黒幕の意図が見え見え。
いわば遠回りをして、JAL123便を富士山の西側を飛行したように見せ掛け、米軍横田基地着陸コースから離そう、離そうとした。そのことは、事故調の「飛行経路略図」を見れば、一目瞭然である。
 なおJAL123便が午後6時30分に、どこを飛行したかの目撃談がある。ただし時間は記述されてはいないが、前の文脈から推測するに、午後6時半の少し前と思われる。
 「国鉄静岡駅南側では、西南から進入して来て、駅方向に右旋回し、今度は左へ翼を傾けてS字状に旋回するジャンボ機を見た」(『日航ジャンボ機墜落 朝日新聞の24時』文庫版、42ページ)。
 午後6時30分に静岡市の先の、静岡県藤枝市上空でしかも超低空飛行させられた機内からは、地上の道路も見えたのかもしれない。

18時30分に富士山の東側を通過したことに気付きにくい理由 その4

  • 投稿No.24
  • 投稿者:せきたに
  • 投稿日:2021-05-21 20:55:52

 「ゆっくりと左右に大きく旋回しているような動きがはじまったのは、酸素マスクをして、しばらくしてからです。
「パーン」という音から、たぶん10分くらいしてからのように思います。」
(『墜落の夏(吉岡忍著)』落合由美さんの手記からの抜粋)

 落合由美さんは「パーン」という音から、10分くらいしてからゆっくりと左右に大きく旋回しているような動きが
はじまったと言われている。

 一方で〈ボーン〉という音を聞かれた直後の機体の様子について、地上からの目撃者は次のように語っておられる。
 東伊豆、河津町のタクシー運転手、近持芳太郎さん(58歳)と渡辺武夫さん(51歳)は河津駅前のベンチで休憩中に、
この瞬間を目撃した。
「海側の北東上空で雷のような〈ボーン〉という音がした。見上げるとジャンボ機は機体後部から灰色の煙を出して駅の
上まで水平飛行した。

 「駅の上まで水平飛行した」とあるので、ゆっくりと左右に大きく旋回するような動きはこの時点ではまだ始まっていない。

 犠牲者の村上良平さんの遺書には

 機体が大きく左右にゆれている
 18・30 急に降下中 

 と記されてあった。

 ということは、機体がゆっくりと左右に大きく旋回しているような動きがはじまったのは地上からの目撃者が上空で
〈ボーン〉という音を聞いた後で、かつ18時30分よりは前のことであったことになる。

 ところで、離陸後、シートベルトのサインが消えた時刻に関する考察で、角田四郎さん著 『疑惑 JAL123便墜落事故』
の250ページには次のように記されている。

『事故後、「日航123便」を避ける乗客が増えたことや日航としてもイメージ・ダウンになることを嫌って、
この便名を欠番にすることを決定し(1985年)9月の秋のダイヤから「123便」が消えることになった。
その最終便に登場した記事があったのを記憶に残していた。

「事故機同様、12分遅れて離陸し8分後の18時20分にベルト・サインが消えた。

 これは好天時の平均的時間で、事故機も同様であったと思われる」新聞記事は毎日であったと思う。』

 事故機は18時12分に離陸しているので、記事の内容通りだとすれば離陸後、シートベルト着用のサインが消えた
時刻は18時20分頃であったと考えられる。
(書物からの引用は以上)

 村上良平さんの遺書が正しければ、機体が左右に揺れはじめたのは18時30分よりも前のことだ。 
 一方で落合由美さんは機体が左右に揺れはじめた地点から約10分前に〈パーン〉という音で酸素マスクが
降りてきたと言われている。

 機体が左右に揺れはじめた地点から落合由美さんの感覚で約10分前ということだが、具体的には離陸後、
まだシートベルトのサインが点灯していた時間帯は該当しない。

 そうすると、〈パーン〉という音が鳴って酸素マスクが降りてきたのは離陸後、シートベルトのサインが
消えて客室乗務員が席を立ち、子供たちに向けて夏休みのキャンペーン商品となっていたミッキーマウスのグッズを
配り始めたあたりの時刻に特定されてくる。

(その5に続く)

18時30分に富士山の東側を通過したことに気付きにくい理由 その3

  • 投稿No.23
  • 投稿者:せきたに
  • 投稿日:2021-05-19 22:17:36

 落合由美さんの証言で「パーン」という音がしたのは離陸後のどの地点だったのだろうか?

『墜落の夏(吉岡忍 著)』に記されている落合由美さんの証言から「パーン」という音と
その付帯状況が記されている箇所を抜粋してみると、

 「禁煙のサインはすぐに消えたのですが、着席のサインが消えていたかどうか、はっきりしません。

 そろそろ水平飛行に移るかなというとき、「パ-ン」という、かなり大きい音がしました。

 「パーン」という音とほとんど同時に、酸素マスクが自動的に落ちてきた。」

 一方で生存者の一人、川上慶子さんに(1985年)8月19日に高崎の病院で看護師により行われたインタビューの中で

「羽田を離陸して「しばらくして、スチュワーデスがミッキーマウスのお人形グッズを配り始めた(読売)とある。

 スチュワーデスたちはベルト・サインの点灯が消えたことを確認してから席を立ったであろうと思われるので、
離陸後一旦はシートベルト着用のサインが消えていたことが推測できる。
(『疑惑 JAL123便墜落事故』(角田四郎著)82ページ)

 離陸後、酸素マスクが降りてきて、いったん消えたベルトサインが再び点灯したのは、どの地点だったのだろうか?
 伊豆半島の東側、河津駅近くからの目撃者の耳に〈ボーン〉と聞こえた時だとすると、辻褄が合わなくなることがありそうだ。

(その4へ続く)

18時30分に富士山の東側を通過したことに気付きにくい理由 その2

  • 投稿No.22
  • 投稿者:せきたに
  • 投稿日:2021-05-17 22:09:46

 「そして、そのとき、窓の外のやや下方に富士山が見えたのです。とても近くでした。
このルートを飛ぶときに、もっとも近くに見えるときと同じくらいの近くでした。
夕方の黒い山肌に、白い雲がかかっていました。左の窓の少し前方に見えた富士山は、
すうっと後方に移動していきます。富士山が窓のちょうど真横にきたとき、
私は安全姿勢をとって、頭を下げたのです。」
(「墜落の夏(吉岡忍 著)」に記されている落合由美さんの証言から)

 上記、落合由美さんの証言内容から、
富士山の東側を通過したときの機体の位置は富士山の頂上からさほど離れていなかったことがわかる。

 一方、伊豆半島東側の河津駅の北西の山側で畑仕事をしていた同町役場職員
渡辺穣さん(45歳)の証言は
「午後6時半前、ボーンという音で上空を見た。雲の切れ間からジャンボ機がふだんの二倍近い大きさで見えた。」
(『疑惑 JAL123便墜落事故(角田四郎著)』21ページからの引用)

 とあるので、午後6時半前、伊豆半島の東側でボーンという音で地上から目撃された機体の位置はいつもの
高度(7,000メートルあたり)ではなく、ふだんの二倍近い大きさで見えるぐらいの高度であったことがわかる。

 そして、これら二つの事柄は18時30分に富士山の東側を通過したことともつながってくる。

(その3へ続く)

18時30分に富士山の東側を通過したことに気付きにくい理由 その1

  • 投稿No.21
  • 投稿者:せきたに
  • 投稿日:2021-05-15 21:18:56

 18時30分に富士山の東側を通過したことに気付きにくい理由(わけ)は皮肉にも落合由美さんの証言の中にある。
 
 「ゆっくりと左右に大きく旋回しているような動きがはじまったのは、酸素マスクをして、しばらくしてからです。
「パーン」という音から、たぶん10分くらいしてからのように思います。このころになって、
酸素マスクをはずしてみても、苦しさは感じませんでした。ただ、ほとんどのお客様がマスクをしていましたが。」
(「墜落の夏(吉岡忍 著)」に記されている落合由美さんの証言から)

 落合由美さんの証言で「パーン」という音がしたと言われるのは離陸後のどの地点だったのだろうか?

 次に、相模湾上空で音がしたとき、地上からの目撃情報があったことが『疑惑 JAL123便墜落事故』(角田四郎 著)の21ページには記されている。

〈目撃情報1〉
 東伊豆、河津町のタクシー運転手、近持芳太郎さん(58歳)と渡辺武夫さん(51歳)は河津駅前のベンチで休憩中に、この瞬間を目撃した。
 「海側の北東上空で雷のような〈ボーン〉という音がした。」
 
〈目撃情報2〉
 (伊豆半島東側の)河津駅の北西の山側で畑仕事をしていた同町役場職員渡辺穣さん(45歳)の証言は
 「午後6時半前、ボーンという音で上空を見た。」

 落合由美さんが手記の中に記されている「パーン」という音がしたというその音と、
上記 〈目撃情報1〉 及び 〈目撃情報2〉 の中で目撃者たちが語られる「ボーン」という音。

 この二つの音は、機内の落合由美さんの耳には「パーン」と聞こえ、地上からは「ボーン」と聞こえたのだろうという解釈になりやすいが、
これら二つの音は本当に同じ事象によって同一時刻に生じた音の、聞こえ方の違いだったのだろうか?

(その2に続く)

青山さんの本に出てくる証言の謎?

  • 投稿No.20
  • 投稿者:憂国人
  • 投稿日:2021-05-10 19:35:29

せきたにさんもこれまでに書かれて来たようにJAL123便は伊豆半島を横断したとしても焼津や藤枝市には到達せず
北上し富士山の東側を飛行したことは明らかです。
焼津や藤枝市では超低空で飛行して目撃されたと青山さんの本に書かれています。
機体の腹の部分に赤い物体が付着したように見えたというオマケつきです。
落合さんの証言を詳細に読んで見ますと異変が起こってから富士山が左の窓の下に見えた場所まで機体が降下したような
証言は有りません。 降下は無かったと証言しています。
青山さんの本に登場する目撃証言が正しければ異変が起きた時点の高度(7000m以上)から機体の様子まで判る
藤枝市上空の高度(約500m以下か)まで降下しなければなりません。
落合さんが嘘の証言をしたとは思えませんので、この目撃証言は青山さんの本の信憑性を貶めれる目的の偽情報だと
私は考えます。 証言が正しいとするならば123便と違う航空機がこの付近を低空飛行していたと考えるのが妥当でしょう。
皆さんはどの本にも飛行航路は富士山の西側となっているのではないかと訝しがられると思います。
そうです、事故調査委員会はこのような航路を何故世間に公表したのでしょうか?
私にはこの謎が解けていません。

もう一度 「再調査」活動

  • 投稿No.19
  • 投稿者:せきたに
  • 投稿日:2021-05-08 15:35:31

 御巣鷹山の悲劇に関しては事故当時中学1年生であった次男と高校1年生であった長女の2人の子供さん
を亡くされた犠牲者遺族の 小田周二さん や
事故で多くの仲間を亡くされた元日航客室乗務員の 青山透子さん らが中心となって
「再調査」を求める活動が継続されていて、裁判も始まり、その影響で新たな証言も次々と出てきている
ということらしい。

 最近入手した下記サイトはその人たちによる「再調査」活動について、
2021年3月1日付で編集された動画だという。
 
※投稿No.5で紹介した際にはアドレスをクリックすることによって動画のサイトを開くことが出来る
 リンク設定が出来ていなかったので、改めて紹介しておきたい。

https://www.youtube.com/watch?v=YqPbzreGPXY

墜落するまでのプロセスで二回の急降下があった

  • 投稿No.18
  • 投稿者:せきたに
  • 投稿日:2021-05-06 20:44:55

 墜落直前の急降下はまっさかさまの急降下であったことが落合由美さんの手記から知ることが出来る。

 安全姿勢をとった座席のなかで、体が大きく揺さぶられるのを感じました。
 船の揺れなどというものではありません。ものすごい揺れです。
 しかし、上下の振動はありませんでした。
 前の席のほうで、いくつくらいかはっきりしませんが女の子が「キャーッ」と叫ぶのが聞こえました。
 聞こえたのは、それだけです。
 そして、すぐに急降下がはじまったのです。まったくの急降下です。まっさかさまです。
 髪の毛が逆立つくらいの感じです。頭の両わきの髪がうしろにひっぱられるような感じ。
 ほんとうはそんなふうにはなっていないのでしょうが、そうなっていると感じるほどでした。 
(『墜落の夏』(吉岡忍 著)から落合由美さんの手記の部分を引用)

 ところが、事故機は墜落直前ではないところでも急降下していた箇所があったことが
 犠牲者の遺書によって知ることが出来る。

『疑惑 JAL123便墜落事故』(角田四郎 著)
 河口博次さん(52歳)会社員 の遺書から
 102ページ〜103ページ 

 今6時半だ
 飛行機はまわりながら
 急速に降下中だ
 本当に今迄は
 幸せな人生だった と感謝している 

 上記河口博次さんの遺書は
 同書104ページに掲載の村上良平さん(43歳)会社員
 の以下の箇所とぴったりと符号する。
 
 18・30 急に降下中

 そして、このときの急降下が墜落直前の急降下でなかったことは、同じ村上良平さんが

 18・45 機体は水平で安定して

 と記されていることからわかる。

 以上のことから、墜落直前の急降下とは別に
 18時30分頃からはじまって、18時45分には
 安定した水平飛行におさまっていた急降下があったことが知られる。

 恐い
 恐い
 恐い
 助けて
 気持ちが悪い
 死にたくない
 まり子
(白井まり子さん)客室乗務員 当時26歳

 客室乗務員の遺書は墜落直前の急降下のときに記されたのものであったのか、
 それとも18時30分からはじまった急降下のときに記されたものだろうか?

手記の途中、何も記されていない不可解な空白時間

  • 投稿No.17
  • 投稿者:せきたに
  • 投稿日:2021-05-04 20:26:56

『墜落の夏』(吉岡 忍 著)には生存者、落合由美さんの手記が掲載されているが、
なぜか途中に何も記されていない長い空白の時間が存在する。

(手記Aの部分)
 そして、そのとき、窓の外のやや下方に富士山が見えたのです。とても近くでした。
このルートを飛ぶときに、もっとも近くに見えるときと同じくらいの近くでした。
夕方の黒い山肌に、白い雲がかかっていました。左の窓の少し前方に見えた富士山は、
すうっと後方に移動していきます。
富士山が窓のちょうど真横にきたとき、私は安全姿勢をとって、頭を下げたのです。

(手記Bの部分)
 安全姿勢をとった座席のなかで、体が大きく揺さぶられるのを感じました。
船の揺れなどというものではありません。ものすごい揺れです。
しかし、上下の振動はありませんでした。
前の席のほうで、いくつくらいかはっきりしませんが女の子が「キャーッ」と叫ぶのが聞こえました。
聞こえたのは、それだけです。
そして、すぐに急降下がはじまったのです。まったくの急降下です。まっさかさまです。
髪の毛が逆立つくらいの感じです。
頭の両わきの髪がうしろにひっぱられるような感じ。ほんとうはそんなふうにはなって
いないのでしょうが、そうなっていると感じるほどでした。

(引用は以上)

 (手記Bの部分)は(手記Aの部分)のすぐ後に記されているので、はじめて手記を読むと、
安全姿勢を取った後、すぐにまっさかさまに急降下がはじまって、そのまま墜落したようにも感じてしまう。

 ところが、落合由美さんが安全姿勢を取られたのは富士山を左手に見られたときであり、墜落直前の急降下が
はじまったのは御巣鷹山のすぐ手前の三国山上空であった。

 落合由美さんが安全姿勢を取られたのが18時30分頃であったとすると、墜落直前の急降下がはじまる18時56分頃
まで(手記Aの部分から手記Bの部分まで)の約26分間に渡って何も記されていないのは不可解だ。

富士山の東側を通過

  • 投稿No.16
  • 投稿者:せきたに
  • 投稿日:2021-05-03 08:52:29

『墜落の夏』(吉岡 忍 著)の中で、落合由美さんの手記が記されている。

 私は「56C」にもどりました。

 そして、そのとき、窓の外のやや下方に富士山が見えたのです。とても近くでした。
 
 このルートを飛ぶときに、もっとも近くに見えるときと同じくらいの近くでした。

 夕方の黒い山肌に、白い雲がかかっていました。

 左の窓の少し前方に見えた富士山は、すうっと後方に移動していきます。

 富士山が窓のちょうど真横にきたとき、私は安全姿勢をとって、頭を下げたのです。

 ※落合由美さんの上の描写によって、日航機が相模湾上空において異変発生後、大月上空に向かうまでのプロセスで富士山の東側を通過していたことがわかる。

機体が大きく左右にゆれている

  • 投稿No.15
  • 投稿者:せきたに
  • 投稿日:2021-05-01 14:53:16

『疑惑 JAL123便墜落事故』(角田四郎 著)
104ページ~105ページには
犠牲者の村上良平さん(43歳)会社員 の遺書が記されている。

最初の2行だけを記す。

機体が大きく左右にゆれている
18・30 急に降下中

この2行によって
18時30分に「急に降下中」となる前、
機体が大きく左右に揺れていたことがわかる。

一方、生存者の落合由美さんの手記によると、機体の左右の揺れに関して
次のように記されている箇所がある。

『墜落の夏』(吉岡忍 著)落合由美さんの手記からの引用

 ゆっくりと左右に大きく旋回しているような動きがはじまったのは、酸素マスクをして、しばらくしてからです。

 飛行機はあいかわらず旋回をくり返すように左右の傾きをつづけます。振動などは全然ありません。とにかく、
くり返し、左右に傾いているという揺れ方がつづきました。急な動きとか、ガタガタ揺れるというのでもなく、
スローです。だんだん揺れが激しくなるというのでもありません。

 私の席に近い左の窓から見えたのは、まっ白な雲だけでした。かなり厚い雲で、地上は見えませんでした。

 私は羽田にもどれればいいな、と感じていました。しかし、まだ雲の上で、高度も高いし、ちょっと無理なんじゃ
ないかな、とだんだん不安になってきました。しかし、ライフ・ベストが座席の下にあることがわからないお客様や、
わかっても、ひっぱって取りだすことがわからないお客様も少なくありませんでした。私の近くにも、ベストの場所が
わからなくて、取り乱している若い女性の人たちがいました。そのときになって私は、席を立って、お客様のお手伝いを
はじめたのです。お客様はこのときはじめて、座席ポケットのなかの『安全のしおり』を取りだしました。

 このころになると、機体の揺れは、じっと立っていられないほどでした。激しい揺れ、というのではなくて、前と
同じように、左右に傾く揺れなのですが、その角度が大きくなって、座席につかまって二、三歩、歩いて、お客様の座席
の下のベストをひっぱて、ちょっと座って、また二、三歩という感じでした。まっすぐ歩いて、あたりを見てまわる、
ということはもうできません。

 揺れはいっそう大きくなりました。もう立っていることはできないほどです。救命胴衣をつけ終わってすぐに、
ほとんどいっせいに安全姿勢をとりました。

 私は「56C」にもどりました。L5のスチュワーデスは通路をはさんでふたつうしろの空席に座りました。安全姿勢は、
頭を下げ、膝の中に入れて、足首をつかむんです。うしろのスチュワーデスも私も、席に座って大声で何度も言いました。
「足首をつかんで、頭を膝の中に入れる!」「全身緊張!」。全身を緊張させるのは、衝撃にそなえるためです。
こういうときは、「・・・してください」とは言いません。

 そして、そのとき、窓の外のやや下方に富士山が見えたのです。とても近くでした。このルートを飛ぶときに、もっとも
近くに見えるときと同じくらいの近くでした。夕方の黒い山肌に、白い雲がかかっていました。左の窓の少し前方に見えた
富士山は、すうっと後方に移動していきます。富士山が窓のちょうど真横にきたとき、私は安全姿勢をとって、頭を下げたのです。

(書物からの引用は以上)

村上良平さんが

「機体が左右に大きく揺れている」

と遺書に記された状態は明らかに18時30分よりも前の出来事である。

そして、生存者の落合由美さんはそのときの状態を手記に残されていた。

そうすると、18時30分というのはほとんど全員が安全姿勢を取られた直後で、その時刻から急に降下が
はじまったことになるが、そのときの機体の位置は富士山が左下に見える位置にあったことがわかる。

客室乗務員の遺書

  • 投稿No.14
  • 投稿者:せきたに
  • 投稿日:2021-04-29 12:16:41

『疑惑 JAL123便墜落事故』(角田四郎 著)
105ページには客室乗務員による遺書が記されている。

恐い
恐い
恐い
助けて
気持ちが悪い
死にたくない
まり子
(白井まり子さん) 客室乗務員 当時26歳

乗客の村上良平さんは
「18・30 急に降下中」
と記されている。

上記白井さんの遺書は、ご自身が安全姿勢を取られた後に起きた急降下中に記されたものだろうか。

客室乗務員がこのように記されるということは、どれほど恐かったのだろうと思う。

Re: JAL123便の飛行経路

  • 投稿No.13 元投稿No.12 池田昌昭さんへの返信
  • 投稿者:管理人[ 管理者 ]
  • 投稿日:2021-04-27 21:47:07

> 青山透子著『日航123便 墜落の新事実』(河出書房新社、105〜106ページ)に述べられている。
>  JAL123便は、静岡県藤枝市上空を超低空飛行し、北方角へ向かい、富士山東側へと飛行したのである。
>  また同じJAL123便は同時刻、藤枝市にごく近い焼津市でも、目撃されている(『日航ジャンボ機墜落 朝日新聞の24時』文庫版、42ページ)。

池田昌昭様 ご意見ありがとうございます。

書物から引用されている箇所の一部分を以下に記させていただきます。

『日航123便 墜落の新事実』(青山 透子 著)河出書房新社
104ページ〜105ページ
 2015年9月、「青山さんに聞いてもらいたい目撃情報がある」ということで突然出版社を訪ねてきてくれた女性がいる。その人は1985年8月12日に目の前を異常なほど低空で飛ぶ日本航空123便を見た、とのことだった。担当編集者がたまたま在席していたが、次の予定があって私の代わりに少し話を聞いて職場の名刺と連絡先を受け取り、そのままになってしまっていた。今回の出版が決まって連絡をすると快く対応してくださり、改めて話を聞く機会を得た。
 現在は東京にて福祉関係の仕事をしていらっしゃる小林美保子さんは、1985年当時22歳で、実家から静岡県藤枝市にある運輸関係の会社まで車で通勤していた。8月12日のあの日は、お盆前で仕事が忙しく、いつも17時半で終わる予定が18時30分になってしまった。
 タイムカードに打刻をして階段を下りて外に出た瞬間、「キャーン、キャーン」と二度、すさまじい女性の金切り声のような音を聞いた。絶叫マシーンに乗った人の悲鳴のような凄い高音で、驚いて頭上を見上げると目の前を低く右斜めに傾きながら飛行しているジャンボジェット機が見えた。 
 ちょうど会社の敷地内で前方に東明高速道路が見える位置だった。自分の背中側から飛んできたジャンボ機は白い塗装に日航のシンボルカラーである赤と紺の線が入っていた。駿河湾の方向から富士山のある北の方角に向かって、ゆっくりと右旋回しながら飛行しており、はっきりと窓も見えるほど高度が低い状態だった。飛行そのものは安定している感じだった。それにしてもいつもの航空路ではないこの場所で低空飛行のジャンボ機を見るとは思ってもいなかった。

『日航ジャンボ機墜落』(朝日新聞の24時)朝日新聞社会部編
42ページ
●午後6時半過ぎ、静岡県焼津市石津、漁業原崎三夫さん(57)は飛行機音に気づいて見上げると、ジャンボ機が翼の上下を三度ほど繰り返して北の雲の中に消えた。「いつもは西へ向かうのに、真っすぐ北上したので変だなと思った。」

●国鉄静岡駅南側では、静岡市田町三丁目、公務員飯塚利明さん(36)が、西南から  
進入して来て、駅方向に右旋回し、今度は左へ翼を傾けてS字状に旋回するジャンボ機を見た。「変な動きをするので、墜落するのではないかと直感的に思った。」

JAL123便の飛行経路

  • 投稿No.12
  • 投稿者:池田昌昭
  • 投稿日:2021-04-27 08:52:55

 1985年8月12日午後6時24分過ぎ、伊豆急河津駅前でのインタビューが冒頭に出てくる、
YouTube「日航123便の謎に迫る⓼ 報告書の飛行経路図は間違っている?!」(2020年5月24日)に出ていた
タクシー運転手(当時)二人のうちの一人の方に、かつて電話取材したことを思い出す。
 その方に限らず、伊豆半島東海岸河津町で取材した方々のテーマは、当日午後6時24分過ぎに「ドーン」と、
河津町に響いた轟音のことだった。
 JAL123便の飛行方向については聞かなかったが、たぶん冒頭インタビューの
YouTubeの通りだったのだろう。
 飛行高度も、下げていたのが分かる。
 つまり、JAL123便は午後6時24分過ぎには、それまでの2回の「異変」と同様に、羽田空港に戻ろうとしていた。
 そして午後6時半には、JAL123便は静岡県藤枝市上空を北方角に向かい、ゆっくりと右旋回しながら超低空飛行したことが、
青山透子著『日航123便 墜落の新事実』(河出書房新社、105〜106ページ)に述べられている。
 JAL123便は、静岡県藤枝市上空を超低空飛行し、北方角へ向かい、富士山東側へと飛行したのである。
 また同じJAL123便は同時刻、藤枝市にごく近い焼津市でも、目撃されている(『日航ジャンボ機墜落 朝日新聞の24時』文庫版、42ページ)。

目撃情報について

  • 投稿No.11
  • 投稿者:憂国人
  • 投稿日:2021-04-26 19:11:19

せきたにさんの投稿文を読みますとJAL123便は相模湾から伊豆半島を横断することなくライトターンして北上し
富士山の東側を飛行して大月方面に向かったのではないかと推理されています。
私も以前に御巣鷹山ゲストブックにこのことを書きました。
その根拠は落合さんが「窓の左下に富士山が見えた」という証言です。
彼女は左側の座席に着席していたので123便は富士山の東側を北上したことになります。
しかし、青山透子さんの「墜落の新事実」を読みますと静岡県藤枝市の会社に勤めていた小林美保子さんが仕事が
終わり6時30分頃に会社を出たところ「キャーン、キャーン」と2度、すさまじい女性の金切り声のような音を聞き
驚いて頭上を見上げるとジャンボ機が見えたと証言しています。
おまけに機体の左下のお腹部分に円筒形の赤色が張り付いているように見えたと書かれています。 
「キャーン、キャーン」との女性の悲鳴にも似た甲高い音は機内の人達の悲鳴だったのではないかとも感想が記されています。

私は友人で元全日空の整備士さん(この方は元航空自衛隊の整備士も経験されています。)に上記の件に付いて質問してみました。
「キャーン、キャーン」という音は民間機であれ戦闘機であれ発することは無い。
機内の乗客の叫び声など地上で聞こえるはずが無い。 
窓が見えたり機体の様子が見える高度は500m以下で無いと無理だろうとのことでした。 
ところが事故報告書に依りますとこの付近での高度は7470mとなっていて全く辻褄が合いません。
赤色の腹部に張り付いているように見えた物体を青山透子さんは誘導ミサイルではないかと推理されていますが民間機を標的にして
ミサイル実験をするなど考えられない。 との回答でした。
私もこの記述には以前から疑問に思っていましたが、友人の回答に同意する立場です。
色々の本を読みますと沢山の目撃情報が寄せられていますが、私は同じ場所で同じ時刻に複数人の同一目撃情報でなければ
信用出来ないと理解しています。
飛行航跡に至っては事故調の発表した航跡が各書籍に載せられていますが高度と共に全く信用が出来ないデーターだと私は思います。
皆さんの反対意見も謙虚に受け止めたいと思いますので是非投稿して下さい。

事故翌日に発表された航跡図の怪

  • 投稿No.10
  • 投稿者:せきたに
  • 投稿日:2021-04-25 08:45:15

 『疑惑 JAL123便墜落事故』(角田四郎さん著)58ページには次のような記載がある。

 「何故、テレビ局や新聞社によって、飛んでいた場所が異なるのか。私には理解出来なかった。
 発表は1ヶ所、つまりニュース・ソースは一つのはずである。
 (事故の翌日に新聞に掲載された航跡図について)
 航跡には明らかな違いがありながら、使われた地図やマーク、説明文字はほぼ同一である。
 海を示す横線、県境を示す点線、羽田や横田の空港マーク、墜落地点マーク、方位を示すNマーク、
 これらは完全に同一のものであり、挿入された文句や字体まで同様であった。
 このことから、このニュースの出所は一つであるはずなのに、重要な航跡が大きく異なっていた。
 こんなことが何故起こるのであろう。新聞社が勝手に航跡を変えるなど、まず絶対にない。
 考えられるのはただ一つであろう。
 それは発表する窓口、つまりニュース・ソースの側で、幾度も手を加えて航跡を変更しているからである。」
(書物からの引用は以上)

 興味深いのは、8月13日朝刊の日本経済新聞の航跡図によると、相模湾上空で異変が発生した後、
事故機は伊豆半島を西に横断せず、北上したことになっていて、不思議な航跡図だ。
ところが、驚くべきことだが、地上からの目撃情報に落合証言や犠牲者の遺書を加えて冷静に考えてみると、
相模湾上空で異変が発生した直後にライトターンし、伊豆半島を北上した可能性があることが浮かび上がってくる。

※目撃情報
『疑惑 JAL123便墜落事故』21ページ~ 
 東伊豆、河津町のタクシー運転手、近持芳太郎さん(58歳)と渡辺武夫さん(51歳)は河津駅前のベンチで休憩中に、この瞬間を目撃した。
 「海側の北東上空で雷のような〈ボーン〉という音がした。見上げるとジャンボ機は機体後方から灰色の煙を出して駅の上まで水平飛行した。
(中略)煙はバスが急坂を上るときに出す排ガスの色のようだった。機体は後部が下がっている感じ。
(中略)ジャンボ機は駅上空を過ぎると大きく右旋回し、北側へ向かい、いつも見るコースから外れた。

 また、同駅の北西の山側で畑仕事をしていた同町役場職員渡辺穣さん(45歳)の証言は
「午後6時半前、ボーンという音で上空を見た。
雲の切れ間からジャンボ機がふだんの二倍近い大きさで見えた。大きく右旋回したので不思議に感じた」という。
(目撃情報は以上)

※以下 落合証言 (『墜落の夏』(吉岡忍さん著からの引用)
 
 ゆっくりと左右に大きく旋回しているような動きがはじまったのは、酸素マスクをして、しばらくしてからです。

 ダッチロールという言葉は、知りませんでした。飛行機はあいかわらず旋回をくり返すように左右の傾きをつづけます。
振動などは全然ありません。とにかく、くり返し、左右に傾いているという揺れ方がつづきました。
急な動きとか、ガタガタ揺れるというのでもなく、スローです。だんだん揺れが激しくなるというのでもありません。

 私の席に近い左の窓から見えたのは、まっ白な雲だけでした。かなり厚い雲で、地上は見えませんでした。
 
 そのうちに酸素が出なくなりました。

 ちょうどそのころになって、私のうしろのL5(最後部左側)ドア受持ちのスチュワーデスが、まわりのお客様に
「座席の下にある救命胴衣を取りだして、つけてください」という指示を出しました。

 前のほうでも、いっせいにベストの着用がはじまっている様子が見えました。

 私はすぐに座席下から救命胴衣をひっぱりだして頭からかぶりました。

 私は羽田にもどれればいいな、と感じていました。
しかし、まだ雲の上で、高度も高いし、ちょっと無理なんじゃないかな、とだんだん不安になってきました。

 このころになると、機体の揺れは、じっと立っていられないほどでした。激しい揺れ、というのではなくて、
前と同じように、左右に傾く揺れなのですが、その角度が大きくなって、座席につかまって二、三歩、歩いて、
お客様の座席の下のベストをひっぱて、ちょっと座って、また二、三歩という感じでした。まっすぐ歩いて、
あたりを見てまわる、ということはもうできません。

 揺れはいっそう大きくなりました。もう立っていることはできないほどです。
救命胴衣をつけ終わってすぐに、ほとんどいっせいに安全姿勢をとりました。
そのときには、眼鏡をはずしたり、先のとがったものは座席ポケットにしまったりとか、
上着があれば、衝撃の際の保護になるように着用してください、と指示するのですが、
そんな時間的余裕はありませんでした。

 私は「56C」にもどりました。

 そして、そのとき、窓の外のやや下方に富士山が見えたのです。とても近くでした。このルートを飛ぶときに、
もっとも近くに見えるときと同じくらいの近くでした。
夕方の黒い山肌に、白い雲がかかっていました。左の窓の少し前方に見えた富士山は、すうっと後方に移動していきます。
富士山が窓のちょうど真横にきたとき、私は安全姿勢をとって、頭を下げたのです。

 以上の証言から、落合由美さんが富士山を左下に見るまで、飛行機は左右の揺れは記されているが、急降下については記されていない。

 ところが、犠牲者の村上良平さんの遺書によると、

 機体が大きく左右にゆれている。
 18:30 急に降下中

とある。

「機体が大きく左右にゆれている。」

 は先ほどの落合さんの証言の中で「56C」の席に戻られる直前の状態と一致する。

 犠牲者の村上良平さんはそのあと、
 18:30 急に降下中
 と記されており、墜落を予感されているが、同じ村上良平さんが
 18:45 機体は水平で安定して・・・ 
と記されていることから、18:30から始まった急降下は墜落前の急降下ではなかった。
 が、機体が左右にゆれている直後から急降下が始まったのであれば、それは落合由美さんが、富士山を左手に見て、
安全姿勢を取られた直後のことであったと考えれば両者は一致する。

 18:30 急降下後、機体は大月上空に向かっているが、大月では目撃情報がある。

 以下、『疑惑 JAL123便墜落事故』の著者 角田四郎さんによる目撃情報

 この事故が発生した1985年8月12日、私は山梨県大月市と神奈川県相模湖の中間に位置する国鉄(現JR)中央線梁川駅にほど近い、
とある都内のスーパーマーケット会社保有の私設キャンプ場にいた。
当時、私が在住していた東京・港区六本木の町内会活動のいっかんで、子供達のサマーキャンプに参加してのことである。
私には少々山歩きの経験があることに子供会の役員が目をつけ請われての参加であった。
むろん私の娘も参加していたので引き受けたわけである。

 12日は日程4日目であった。この日は私の指導で近くの倉岳山(990メートル)へハイキングに出かけた。
夏の陽がジリジリ照りつける暑い日であった。
どうにか全員無事に全行程を歩きぬいて桂川河川敷に近いキャンプ場にたどり着いたのが午後3時過ぎ。
4時頃、突然、空が真っ暗になり、バケツの水をひっくり返した様な大ツブの雨がたたきつけ、カミナリが近くで鳴り響いた。
約1時間話し声もかき消さんばかりの雷雨が続き、降り始めと同じように突然やんだ。

 雨が上がった空は一変して、澄み切った青空が広がり涼風を運んできた。

 夕食を少しでも早く取り、子供が楽しみにしていたキャンプ・ファイアーを可能な限り実行してやろうということになり、
雨の中で私が中心となって夕食作りを始めた。その最中キャンプ・ファイアーもやることを決定。
準備があるので、開始を40分遅らせて、7時40分とした。すでに6時をまわっていた。休む間もない。
大人達の食事をいっきに作り上げたとき、私の身体は服のまま泳いだように全身汗みどろとなっていた。
さし出されたジュースをのみほして時計を見ると、6時40分近く、間に合った・・・
という安堵と充実感で、その時の時計の針を今もハッキリ憶えている。

 自分は夕食を即座に口にする気持ちにはなれなかった。着替えも必要である。
 私はとりあえず涼を求めて、桂川の河辺にある高台に歩を進めた。
そして大きく手を広げて天を仰いだその時、私の目に場違いと思える大きな飛行機の機影が飛び込んできた。

 ほぼ南を向いて立っていた私の左手に、北から南へ向かって、少し右に傾いた民間航空機であった。
民間機と瞬時に思ったのは、窓が一列にたくさん見えたからである。
見ていると、すぐに水平飛行に戻り、ゆっくりと南下して行く。

 「あれ、ちょっと変わった飛行機だなァ」と考えたことを憶えているが、尾翼があるとかないとか、
堕ちるのでは、などとはみじんも思っていなかった。
「どこへ行くんだろう、こんな所を飛んで・・・この辺に飛行場もないし・・・」と思ったが、次の瞬間、
「あ、横田や厚木の米軍基地が近いんだ」と思い、その後は米軍のチャーター機と決めつけて見ていた。

 大きな飛行機という印象も、やたら窓がはっきり見えていたからである。高度もそれゆえに低く感じたし、
速度も実にゆっくりに見えていた。ただ足元の桂川のせせらぎのせいで、全く音はなかった。
その機の窓を見ていた私は年がいもなく、「あれぐらい低いと、乗っている人もこっちを見ているかもしれないな」と思い、
上げた手を機に向かって振ってみたりした。
やがて飛行機はふたたび右に少し傾きながら、我々が昼間登ったばかりの倉岳山の東側を南西に向けて山影に消えた。

 私はまた風にあたりながら足腰の屈伸運動や深呼吸をした。目の前の川向こうの山が夕日に映えていた。
そのとき、飛び去ったと思った飛行機がその山の右へひょっこり顔を出した。
今度は西に向かっている。さっきよりは距離があって小さく見えるが、あまり上昇していないと感じた。
今度はすぐに次の山影にかくれて見えなくなった。

 私は「あの飛行機やっぱりちょっとおかしいな」とだけ感じた。それは米軍基地は東の方角だからであった。
「あの高度、速度は、これから着陸する感じだったが」とも思いながら、私は振り返って自分のバンガローに向かった。

 大きな飛行機を見ていたのは6時40分~41分頃から43分~44分の間であった。

(角田四郎さんによる目撃情報は以上)
 
 以上のことから、墜落直前の急降下ではないが、18:30頃、左手下に富士山を見る位置から大月上空までの区間で、
おそらくは着陸を前提としての急降下があったことになる。

 また、落合由美さんが、富士山を左手に見て、安全姿勢を取られたのは必然的に18:30頃、
急降下の始まる直前のことであったということになってくる。

 ※通常の航路からはずれた日航機が18:30頃に富士山の東側を通過したというのであれば、相模湾上空で
  異変発生後、伊豆半島を西に横断したのか、それとも北上したのかの航跡に関してはおのずと決着が付く。

恋人が犠牲者に

  • 投稿No.9
  • 投稿者:せきたに
  • 投稿日:2021-04-21 21:10:53

 自分にとって大切な人の命が何の前触れもなく突然奪われてしまうというのは魂を吸い取られ、生きる気力を失わせてしまうような出来事に違いない。

 『疑惑 JAL123便墜落事故』の著者、角田四郎さんのごく親しい友人が、犠牲者遺族にはカウントされないが、そういった悲しい出来事に遭遇された。

『疑惑 JAL123便墜落事故』109ページ~

 (1985年)8月16日の深夜、たぶん午前0時を過ぎていたであろう。
電話のベルが鳴り響いた。出てみると友人のK氏であった。
ごく親しい友人である。
「夜分済みません。ちょっと話を聞いていただきたいので、出てきて頂けませんか?」

 電話の声は心なしか沈んでいる。酒に酔っての電話でもなさそうだし、どうせまだ暑くて眠れそうにないと、その程度の思いで「よし、行く!」と答えて街に出た。
 夏の12時の六本木は、一日のうちで最も賑わう時間である。(この時代はそうだった)

 行きつけの店で友人に逢った。その店の主人も友人の用件を知っているらしく、いつもバカ話で楽しむカウンターの奥の席ではなく、人目に付かない席が用意されていた。 
 「いや、申し訳ありません夜分に」店の主人が私を見るなり、そういうので驚いた。

・店のマスター
 「私が勝手にダイヤルを回して、Kさんに話させたんです。この人遠慮ばかりしているもんだからつい。話だけでも聞いてあげて下さい」

・友人のK
 「この間、角田さんが日航機の話してたでしょ。あれ思い出して電話したんですよ」

・角田四郎さん
 私はキツネにつままれた様な気持ちでK氏の前に座った。そして彼の顔を見たとたんに私は血の気を失った。いつもつき合っているゆったりとした彼ではない、まるで別人の様な友人がそこにいた。

・友人のK
 「スミマセン、こんな時間に・・・・・・前にお引き合わせした僕の彼女、覚えてますか・・・・・・彼女、日航機に乗ってました。123便に」

・角田四郎さん
 「本当に・・・・・・!でも確認したの、乗客名簿は信用出来ないよ、あれだけでは」

・友人のK
 「いいえ、もう彼女の友達も御両親も(遺体安置所のある)藤岡へ行かれてますし・・・・・・」

真相解明と再発防止

  • 投稿No.8
  • 投稿者:池田昌昭
  • 投稿日:2021-04-20 09:02:35

真相解明と再発防止

 この新掲示板から、JAL123便墜落事故の真相がより一層解明され、再調査への動きが加速化することを願う。
 『朝日新聞』(2021年4月17日付)は、JR福知山線脱線事故のことを記事にしている。
 御巣鷹のことも、決して国民は忘れてはいない。
 否、ますます真相解明と再発防止への国民の願いが高まってきている。
 それは、長年JAL123便墜落事故のことを研究していて、如実に感ずることである。
 JAL123便墜落事故当初はほとんど情報がなかったが、ここに至り、ネットの発達もこれあり、
JAL123便墜落事故の本質を国民が知るようになり、再発防止への地道な努力が続いていることは特筆すべき。
 今は新型コロナの影響で、航空機・鉄道・飲食等のみならず、社会全体が停滞しているが、
これも国民の知恵と努力とにより、克服していくのは間違いない。
 ただし、それには時間がかかるが、国民の健全な生活がこれを乗り越えていく。

「事故ではなく、事件だった」 のかもしれない

  • 投稿No.7
  • 投稿者:せきたに[ 管理者 ]
  • 投稿日:2021-04-17 09:22:50

事故調査委員会の報告書に疑問を感じ、独自の追求をされた人たちによる
説が複数あるようだが、細かな点では主張が異なる。
その細かな点が重要でお互いに妥協できないという向きも感じ取れるが、

「事故ではなく、事件だった」

という見方では一致している人たちが多い。

「再調査」活動

  • 投稿No.5
  • 投稿者:管理人[ 管理者 ]
  • 投稿日:2021-04-17 06:49:55

御巣鷹山の悲劇に関しては事故当時中学1年生であった次男と高校1年生であった長女の2人の子供さんを亡く
された犠牲者遺族の小田周二さんや事故で多くの仲間を亡くされた元日航客室乗務員の青山透子さんらが中心と
なって「再調査」を求める活動が継続されていて、裁判も始まり、その影響で新たな証言も次々と出てきている
ということらしい。

最近入手した下記サイトはその人たちによる「再調査」活動について、2021年3月1日付で編集された動画だという。

https://www.youtube.com/watch?v=YqPbzreGPXY

早速の投稿ありがとうございます。

  • 投稿No.4
  • 投稿者:管理人[ 管理者 ]
  • 投稿日:2021-04-16 20:11:49

池田昌昭様、憂国人様 

早速の投稿と、その中で掲示板設立のお祝いの言葉をいただきましてありがとうございます。

ただ、新規投稿をいただく際に、投稿とパスワード設定との関連性がわかりにくかったかもしれません。
[投稿No1] を編集する形で「新規投稿」と「パスワード設定」との関連性について説明書きしておきました。
ご確認ください。

今後ともざっくばらんな投稿を期待しております。

新掲示板おめでとうございます!

  • 投稿No.3
  • 投稿者:憂国人
  • 投稿日:2021-04-14 17:38:13

永らく馴染んで来ました「御巣鷹山ゲストブック」が閉鎖されて淋しい思いをして来た1人です。
この度、せきたにさんのご努力で新しい掲示板が出来ましたことは大変喜ばしいことです。
かってのゲストブックの仲間や新しい仲間の皆さんが、このサイトに集まって来られることを期待しています!

新掲示板の門出

  • 投稿No.2
  • 投稿者:池田昌昭
  • 投稿日:2021-04-14 17:02:19

 掲示板「御巣鷹山の悲劇」設立がされ、これから多くの方々が投稿され、ざっくばらんな「交流の場」となることを期待したい。
 25年余り続いた「御巣鷹山ゲストブック」に多くの方々が投稿され、国民が今まで知らなかったJAL123便墜落事故の真実を知り、平和への国民の願いが一つであることが分かっただけでも意義があった。
 私事を述べて何ですが、多くの方々から貴重な情報をご提供いただき、また勇気もいただき厚く感謝しています。
 現在、新型コロナで日本国民のみならず、世界が苦しめられているが、この苦しみで分かったことがある。
それは儲け主義の一方で、各国国民がいかに忍耐強く、健全であり、また確実に生活を守り抜いているかである。
 世はネット時代である。
 この掲示板がネット時代をさらに深化させ、多くの方々が参加し、新しい時代を切り拓いていくことを願う。

掲示板設立の趣旨

  • 投稿No.1
  • 投稿者:管理人[ 管理者 ]
  • 投稿日:2021-04-14 03:29:21

管理人です。

本日(2021年4月14日)付けで 【御巣鷹山の悲劇】 という題する掲示板を設立しました。

まずは画面右上の「掲示板設立の趣旨」をクリックしてみてください。