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御巣鷹山の悲劇
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『疑惑 JAL123便墜落事故』(角田四郎さん著)58ページには次のような記載がある。 「何故、テレビ局や新聞社によって、飛んでいた場所が異なるのか。私には理解出来なかった。 発表は1ヶ所、つまりニュース・ソースは一つのはずである。 (事故の翌日に新聞に掲載された航跡図について) 航跡には明らかな違いがありながら、使われた地図やマーク、説明文字はほぼ同一である。 海を示す横線、県境を示す点線、羽田や横田の空港マーク、墜落地点マーク、方位を示すNマーク、 これらは完全に同一のものであり、挿入された文句や字体まで同様であった。 このことから、このニュースの出所は一つであるはずなのに、重要な航跡が大きく異なっていた。 こんなことが何故起こるのであろう。新聞社が勝手に航跡を変えるなど、まず絶対にない。 考えられるのはただ一つであろう。 それは発表する窓口、つまりニュース・ソースの側で、幾度も手を加えて航跡を変更しているからである。」 (書物からの引用は以上) 興味深いのは、8月13日朝刊の日本経済新聞の航跡図によると、相模湾上空で異変が発生した後、 事故機は伊豆半島を西に横断せず、北上したことになっていて、不思議な航跡図だ。 ところが、驚くべきことだが、地上からの目撃情報に落合証言や犠牲者の遺書を加えて冷静に考えてみると、 相模湾上空で異変が発生した直後にライトターンし、伊豆半島を北上した可能性があることが浮かび上がってくる。 ※目撃情報 『疑惑 JAL123便墜落事故』21ページ~ 東伊豆、河津町のタクシー運転手、近持芳太郎さん(58歳)と渡辺武夫さん(51歳)は河津駅前のベンチで休憩中に、この瞬間を目撃した。 「海側の北東上空で雷のような〈ボーン〉という音がした。見上げるとジャンボ機は機体後方から灰色の煙を出して駅の上まで水平飛行した。 (中略)煙はバスが急坂を上るときに出す排ガスの色のようだった。機体は後部が下がっている感じ。 (中略)ジャンボ機は駅上空を過ぎると大きく右旋回し、北側へ向かい、いつも見るコースから外れた。 また、同駅の北西の山側で畑仕事をしていた同町役場職員渡辺穣さん(45歳)の証言は 「午後6時半前、ボーンという音で上空を見た。 雲の切れ間からジャンボ機がふだんの二倍近い大きさで見えた。大きく右旋回したので不思議に感じた」という。 (目撃情報は以上) ※以下 落合証言 (『墜落の夏』(吉岡忍さん著からの引用) ゆっくりと左右に大きく旋回しているような動きがはじまったのは、酸素マスクをして、しばらくしてからです。 ダッチロールという言葉は、知りませんでした。飛行機はあいかわらず旋回をくり返すように左右の傾きをつづけます。 振動などは全然ありません。とにかく、くり返し、左右に傾いているという揺れ方がつづきました。 急な動きとか、ガタガタ揺れるというのでもなく、スローです。だんだん揺れが激しくなるというのでもありません。 私の席に近い左の窓から見えたのは、まっ白な雲だけでした。かなり厚い雲で、地上は見えませんでした。 そのうちに酸素が出なくなりました。 ちょうどそのころになって、私のうしろのL5(最後部左側)ドア受持ちのスチュワーデスが、まわりのお客様に 「座席の下にある救命胴衣を取りだして、つけてください」という指示を出しました。 前のほうでも、いっせいにベストの着用がはじまっている様子が見えました。 私はすぐに座席下から救命胴衣をひっぱりだして頭からかぶりました。 私は羽田にもどれればいいな、と感じていました。 しかし、まだ雲の上で、高度も高いし、ちょっと無理なんじゃないかな、とだんだん不安になってきました。 このころになると、機体の揺れは、じっと立っていられないほどでした。激しい揺れ、というのではなくて、 前と同じように、左右に傾く揺れなのですが、その角度が大きくなって、座席につかまって二、三歩、歩いて、 お客様の座席の下のベストをひっぱて、ちょっと座って、また二、三歩という感じでした。まっすぐ歩いて、 あたりを見てまわる、ということはもうできません。 揺れはいっそう大きくなりました。もう立っていることはできないほどです。 救命胴衣をつけ終わってすぐに、ほとんどいっせいに安全姿勢をとりました。 そのときには、眼鏡をはずしたり、先のとがったものは座席ポケットにしまったりとか、 上着があれば、衝撃の際の保護になるように着用してください、と指示するのですが、 そんな時間的余裕はありませんでした。 私は「56C」にもどりました。 そして、そのとき、窓の外のやや下方に富士山が見えたのです。とても近くでした。このルートを飛ぶときに、 もっとも近くに見えるときと同じくらいの近くでした。 夕方の黒い山肌に、白い雲がかかっていました。左の窓の少し前方に見えた富士山は、すうっと後方に移動していきます。 富士山が窓のちょうど真横にきたとき、私は安全姿勢をとって、頭を下げたのです。 以上の証言から、落合由美さんが富士山を左下に見るまで、飛行機は左右の揺れは記されているが、急降下については記されていない。 ところが、犠牲者の村上良平さんの遺書によると、 機体が大きく左右にゆれている。 18:30 急に降下中 とある。 「機体が大きく左右にゆれている。」 は先ほどの落合さんの証言の中で「56C」の席に戻られる直前の状態と一致する。 犠牲者の村上良平さんはそのあと、 18:30 急に降下中 と記されており、墜落を予感されているが、同じ村上良平さんが 18:45 機体は水平で安定して・・・ と記されていることから、18:30から始まった急降下は墜落前の急降下ではなかった。 が、機体が左右にゆれている直後から急降下が始まったのであれば、それは落合由美さんが、富士山を左手に見て、 安全姿勢を取られた直後のことであったと考えれば両者は一致する。 18:30 急降下後、機体は大月上空に向かっているが、大月では目撃情報がある。 以下、『疑惑 JAL123便墜落事故』の著者 角田四郎さんによる目撃情報 この事故が発生した1985年8月12日、私は山梨県大月市と神奈川県相模湖の中間に位置する国鉄(現JR)中央線梁川駅にほど近い、 とある都内のスーパーマーケット会社保有の私設キャンプ場にいた。 当時、私が在住していた東京・港区六本木の町内会活動のいっかんで、子供達のサマーキャンプに参加してのことである。 私には少々山歩きの経験があることに子供会の役員が目をつけ請われての参加であった。 むろん私の娘も参加していたので引き受けたわけである。 12日は日程4日目であった。この日は私の指導で近くの倉岳山(990メートル)へハイキングに出かけた。 夏の陽がジリジリ照りつける暑い日であった。 どうにか全員無事に全行程を歩きぬいて桂川河川敷に近いキャンプ場にたどり着いたのが午後3時過ぎ。 4時頃、突然、空が真っ暗になり、バケツの水をひっくり返した様な大ツブの雨がたたきつけ、カミナリが近くで鳴り響いた。 約1時間話し声もかき消さんばかりの雷雨が続き、降り始めと同じように突然やんだ。 雨が上がった空は一変して、澄み切った青空が広がり涼風を運んできた。 夕食を少しでも早く取り、子供が楽しみにしていたキャンプ・ファイアーを可能な限り実行してやろうということになり、 雨の中で私が中心となって夕食作りを始めた。その最中キャンプ・ファイアーもやることを決定。 準備があるので、開始を40分遅らせて、7時40分とした。すでに6時をまわっていた。休む間もない。 大人達の食事をいっきに作り上げたとき、私の身体は服のまま泳いだように全身汗みどろとなっていた。 さし出されたジュースをのみほして時計を見ると、6時40分近く、間に合った・・・ という安堵と充実感で、その時の時計の針を今もハッキリ憶えている。 自分は夕食を即座に口にする気持ちにはなれなかった。着替えも必要である。 私はとりあえず涼を求めて、桂川の河辺にある高台に歩を進めた。 そして大きく手を広げて天を仰いだその時、私の目に場違いと思える大きな飛行機の機影が飛び込んできた。 ほぼ南を向いて立っていた私の左手に、北から南へ向かって、少し右に傾いた民間航空機であった。 民間機と瞬時に思ったのは、窓が一列にたくさん見えたからである。 見ていると、すぐに水平飛行に戻り、ゆっくりと南下して行く。 「あれ、ちょっと変わった飛行機だなァ」と考えたことを憶えているが、尾翼があるとかないとか、 堕ちるのでは、などとはみじんも思っていなかった。 「どこへ行くんだろう、こんな所を飛んで・・・この辺に飛行場もないし・・・」と思ったが、次の瞬間、 「あ、横田や厚木の米軍基地が近いんだ」と思い、その後は米軍のチャーター機と決めつけて見ていた。 大きな飛行機という印象も、やたら窓がはっきり見えていたからである。高度もそれゆえに低く感じたし、 速度も実にゆっくりに見えていた。ただ足元の桂川のせせらぎのせいで、全く音はなかった。 その機の窓を見ていた私は年がいもなく、「あれぐらい低いと、乗っている人もこっちを見ているかもしれないな」と思い、 上げた手を機に向かって振ってみたりした。 やがて飛行機はふたたび右に少し傾きながら、我々が昼間登ったばかりの倉岳山の東側を南西に向けて山影に消えた。 私はまた風にあたりながら足腰の屈伸運動や深呼吸をした。目の前の川向こうの山が夕日に映えていた。 そのとき、飛び去ったと思った飛行機がその山の右へひょっこり顔を出した。 今度は西に向かっている。さっきよりは距離があって小さく見えるが、あまり上昇していないと感じた。 今度はすぐに次の山影にかくれて見えなくなった。 私は「あの飛行機やっぱりちょっとおかしいな」とだけ感じた。それは米軍基地は東の方角だからであった。 「あの高度、速度は、これから着陸する感じだったが」とも思いながら、私は振り返って自分のバンガローに向かった。 大きな飛行機を見ていたのは6時40分~41分頃から43分~44分の間であった。 (角田四郎さんによる目撃情報は以上) 以上のことから、墜落直前の急降下ではないが、18:30頃、左手下に富士山を見る位置から大月上空までの区間で、 おそらくは着陸を前提としての急降下があったことになる。 また、落合由美さんが、富士山を左手に見て、安全姿勢を取られたのは必然的に18:30頃、 急降下の始まる直前のことであったということになってくる。 ※通常の航路からはずれた日航機が18:30頃に富士山の東側を通過したというのであれば、相模湾上空で 異変発生後、伊豆半島を西に横断したのか、それとも北上したのかの航跡に関してはおのずと決着が付く。
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