18時30分に富士山の東側を通過したことに気付きにくい理由 その3

  • 投稿No.23
  • 投稿者:せきたに
  • 投稿日:2021-05-19 22:17:36

 落合由美さんの証言で「パーン」という音がしたのは離陸後のどの地点だったのだろうか?

『墜落の夏(吉岡忍 著)』に記されている落合由美さんの証言から「パーン」という音と
その付帯状況が記されている箇所を抜粋してみると、

 「禁煙のサインはすぐに消えたのですが、着席のサインが消えていたかどうか、はっきりしません。

 そろそろ水平飛行に移るかなというとき、「パ-ン」という、かなり大きい音がしました。

 「パーン」という音とほとんど同時に、酸素マスクが自動的に落ちてきた。」

 一方で生存者の一人、川上慶子さんに(1985年)8月19日に高崎の病院で看護師により行われたインタビューの中で

「羽田を離陸して「しばらくして、スチュワーデスがミッキーマウスのお人形グッズを配り始めた(読売)とある。

 スチュワーデスたちはベルト・サインの点灯が消えたことを確認してから席を立ったであろうと思われるので、
離陸後一旦はシートベルト着用のサインが消えていたことが推測できる。
(『疑惑 JAL123便墜落事故』(角田四郎著)82ページ)

 離陸後、酸素マスクが降りてきて、いったん消えたベルトサインが再び点灯したのは、どの地点だったのだろうか?
 伊豆半島の東側、河津駅近くからの目撃者の耳に〈ボーン〉と聞こえた時だとすると、辻褄が合わなくなることがありそうだ。

(その4へ続く)

18時30分に富士山の東側を通過したことに気付きにくい理由 その2

  • 投稿No.22
  • 投稿者:せきたに
  • 投稿日:2021-05-17 22:09:46

 「そして、そのとき、窓の外のやや下方に富士山が見えたのです。とても近くでした。
このルートを飛ぶときに、もっとも近くに見えるときと同じくらいの近くでした。
夕方の黒い山肌に、白い雲がかかっていました。左の窓の少し前方に見えた富士山は、
すうっと後方に移動していきます。富士山が窓のちょうど真横にきたとき、
私は安全姿勢をとって、頭を下げたのです。」
(「墜落の夏(吉岡忍 著)」に記されている落合由美さんの証言から)

 上記、落合由美さんの証言内容から、
富士山の東側を通過したときの機体の位置は富士山の頂上からさほど離れていなかったことがわかる。

 一方、伊豆半島東側の河津駅の北西の山側で畑仕事をしていた同町役場職員
渡辺穣さん(45歳)の証言は
「午後6時半前、ボーンという音で上空を見た。雲の切れ間からジャンボ機がふだんの二倍近い大きさで見えた。」
(『疑惑 JAL123便墜落事故(角田四郎著)』21ページからの引用)

 とあるので、午後6時半前、伊豆半島の東側でボーンという音で地上から目撃された機体の位置はいつもの
高度(7,000メートルあたり)ではなく、ふだんの二倍近い大きさで見えるぐらいの高度であったことがわかる。

 そして、これら二つの事柄は18時30分に富士山の東側を通過したことともつながってくる。

(その3へ続く)

18時30分に富士山の東側を通過したことに気付きにくい理由 その1

  • 投稿No.21
  • 投稿者:せきたに
  • 投稿日:2021-05-15 21:18:56

 18時30分に富士山の東側を通過したことに気付きにくい理由(わけ)は皮肉にも落合由美さんの証言の中にある。
 
 「ゆっくりと左右に大きく旋回しているような動きがはじまったのは、酸素マスクをして、しばらくしてからです。
「パーン」という音から、たぶん10分くらいしてからのように思います。このころになって、
酸素マスクをはずしてみても、苦しさは感じませんでした。ただ、ほとんどのお客様がマスクをしていましたが。」
(「墜落の夏(吉岡忍 著)」に記されている落合由美さんの証言から)

 落合由美さんの証言で「パーン」という音がしたと言われるのは離陸後のどの地点だったのだろうか?

 次に、相模湾上空で音がしたとき、地上からの目撃情報があったことが『疑惑 JAL123便墜落事故』(角田四郎 著)の21ページには記されている。

〈目撃情報1〉
 東伊豆、河津町のタクシー運転手、近持芳太郎さん(58歳)と渡辺武夫さん(51歳)は河津駅前のベンチで休憩中に、この瞬間を目撃した。
 「海側の北東上空で雷のような〈ボーン〉という音がした。」
 
〈目撃情報2〉
 (伊豆半島東側の)河津駅の北西の山側で畑仕事をしていた同町役場職員渡辺穣さん(45歳)の証言は
 「午後6時半前、ボーンという音で上空を見た。」

 落合由美さんが手記の中に記されている「パーン」という音がしたというその音と、
上記 〈目撃情報1〉 及び 〈目撃情報2〉 の中で目撃者たちが語られる「ボーン」という音。

 この二つの音は、機内の落合由美さんの耳には「パーン」と聞こえ、地上からは「ボーン」と聞こえたのだろうという解釈になりやすいが、
これら二つの音は本当に同じ事象によって同一時刻に生じた音の、聞こえ方の違いだったのだろうか?

(その2に続く)

青山さんの本に出てくる証言の謎?

  • 投稿No.20
  • 投稿者:憂国人
  • 投稿日:2021-05-10 19:35:29

せきたにさんもこれまでに書かれて来たようにJAL123便は伊豆半島を横断したとしても焼津や藤枝市には到達せず
北上し富士山の東側を飛行したことは明らかです。
焼津や藤枝市では超低空で飛行して目撃されたと青山さんの本に書かれています。
機体の腹の部分に赤い物体が付着したように見えたというオマケつきです。
落合さんの証言を詳細に読んで見ますと異変が起こってから富士山が左の窓の下に見えた場所まで機体が降下したような
証言は有りません。 降下は無かったと証言しています。
青山さんの本に登場する目撃証言が正しければ異変が起きた時点の高度(7000m以上)から機体の様子まで判る
藤枝市上空の高度(約500m以下か)まで降下しなければなりません。
落合さんが嘘の証言をしたとは思えませんので、この目撃証言は青山さんの本の信憑性を貶めれる目的の偽情報だと
私は考えます。 証言が正しいとするならば123便と違う航空機がこの付近を低空飛行していたと考えるのが妥当でしょう。
皆さんはどの本にも飛行航路は富士山の西側となっているのではないかと訝しがられると思います。
そうです、事故調査委員会はこのような航路を何故世間に公表したのでしょうか?
私にはこの謎が解けていません。

もう一度 「再調査」活動

  • 投稿No.19
  • 投稿者:せきたに
  • 投稿日:2021-05-08 15:35:31

 御巣鷹山の悲劇に関しては事故当時中学1年生であった次男と高校1年生であった長女の2人の子供さん
を亡くされた犠牲者遺族の 小田周二さん や
事故で多くの仲間を亡くされた元日航客室乗務員の 青山透子さん らが中心となって
「再調査」を求める活動が継続されていて、裁判も始まり、その影響で新たな証言も次々と出てきている
ということらしい。

 最近入手した下記サイトはその人たちによる「再調査」活動について、
2021年3月1日付で編集された動画だという。
 
※投稿No.5で紹介した際にはアドレスをクリックすることによって動画のサイトを開くことが出来る
 リンク設定が出来ていなかったので、改めて紹介しておきたい。

https://www.youtube.com/watch?v=YqPbzreGPXY

墜落するまでのプロセスで二回の急降下があった

  • 投稿No.18
  • 投稿者:せきたに
  • 投稿日:2021-05-06 20:44:55

 墜落直前の急降下はまっさかさまの急降下であったことが落合由美さんの手記から知ることが出来る。

 安全姿勢をとった座席のなかで、体が大きく揺さぶられるのを感じました。
 船の揺れなどというものではありません。ものすごい揺れです。
 しかし、上下の振動はありませんでした。
 前の席のほうで、いくつくらいかはっきりしませんが女の子が「キャーッ」と叫ぶのが聞こえました。
 聞こえたのは、それだけです。
 そして、すぐに急降下がはじまったのです。まったくの急降下です。まっさかさまです。
 髪の毛が逆立つくらいの感じです。頭の両わきの髪がうしろにひっぱられるような感じ。
 ほんとうはそんなふうにはなっていないのでしょうが、そうなっていると感じるほどでした。 
(『墜落の夏』(吉岡忍 著)から落合由美さんの手記の部分を引用)

 ところが、事故機は墜落直前ではないところでも急降下していた箇所があったことが
 犠牲者の遺書によって知ることが出来る。

『疑惑 JAL123便墜落事故』(角田四郎 著)
 河口博次さん(52歳)会社員 の遺書から
 102ページ〜103ページ 

 今6時半だ
 飛行機はまわりながら
 急速に降下中だ
 本当に今迄は
 幸せな人生だった と感謝している 

 上記河口博次さんの遺書は
 同書104ページに掲載の村上良平さん(43歳)会社員
 の以下の箇所とぴったりと符号する。
 
 18・30 急に降下中

 そして、このときの急降下が墜落直前の急降下でなかったことは、同じ村上良平さんが

 18・45 機体は水平で安定して

 と記されていることからわかる。

 以上のことから、墜落直前の急降下とは別に
 18時30分頃からはじまって、18時45分には
 安定した水平飛行におさまっていた急降下があったことが知られる。

 恐い
 恐い
 恐い
 助けて
 気持ちが悪い
 死にたくない
 まり子
(白井まり子さん)客室乗務員 当時26歳

 客室乗務員の遺書は墜落直前の急降下のときに記されたのものであったのか、
 それとも18時30分からはじまった急降下のときに記されたものだろうか?

手記の途中、何も記されていない不可解な空白時間

  • 投稿No.17
  • 投稿者:せきたに
  • 投稿日:2021-05-04 20:26:56

『墜落の夏』(吉岡 忍 著)には生存者、落合由美さんの手記が掲載されているが、
なぜか途中に何も記されていない長い空白の時間が存在する。

(手記Aの部分)
 そして、そのとき、窓の外のやや下方に富士山が見えたのです。とても近くでした。
このルートを飛ぶときに、もっとも近くに見えるときと同じくらいの近くでした。
夕方の黒い山肌に、白い雲がかかっていました。左の窓の少し前方に見えた富士山は、
すうっと後方に移動していきます。
富士山が窓のちょうど真横にきたとき、私は安全姿勢をとって、頭を下げたのです。

(手記Bの部分)
 安全姿勢をとった座席のなかで、体が大きく揺さぶられるのを感じました。
船の揺れなどというものではありません。ものすごい揺れです。
しかし、上下の振動はありませんでした。
前の席のほうで、いくつくらいかはっきりしませんが女の子が「キャーッ」と叫ぶのが聞こえました。
聞こえたのは、それだけです。
そして、すぐに急降下がはじまったのです。まったくの急降下です。まっさかさまです。
髪の毛が逆立つくらいの感じです。
頭の両わきの髪がうしろにひっぱられるような感じ。ほんとうはそんなふうにはなって
いないのでしょうが、そうなっていると感じるほどでした。

(引用は以上)

 (手記Bの部分)は(手記Aの部分)のすぐ後に記されているので、はじめて手記を読むと、
安全姿勢を取った後、すぐにまっさかさまに急降下がはじまって、そのまま墜落したようにも感じてしまう。

 ところが、落合由美さんが安全姿勢を取られたのは富士山を左手に見られたときであり、墜落直前の急降下が
はじまったのは御巣鷹山のすぐ手前の三国山上空であった。

 落合由美さんが安全姿勢を取られたのが18時30分頃であったとすると、墜落直前の急降下がはじまる18時56分頃
まで(手記Aの部分から手記Bの部分まで)の約26分間に渡って何も記されていないのは不可解だ。

富士山の東側を通過

  • 投稿No.16
  • 投稿者:せきたに
  • 投稿日:2021-05-03 08:52:29

『墜落の夏』(吉岡 忍 著)の中で、落合由美さんの手記が記されている。

 私は「56C」にもどりました。

 そして、そのとき、窓の外のやや下方に富士山が見えたのです。とても近くでした。
 
 このルートを飛ぶときに、もっとも近くに見えるときと同じくらいの近くでした。

 夕方の黒い山肌に、白い雲がかかっていました。

 左の窓の少し前方に見えた富士山は、すうっと後方に移動していきます。

 富士山が窓のちょうど真横にきたとき、私は安全姿勢をとって、頭を下げたのです。

 ※落合由美さんの上の描写によって、日航機が相模湾上空において異変発生後、大月上空に向かうまでのプロセスで富士山の東側を通過していたことがわかる。

機体が大きく左右にゆれている

  • 投稿No.15
  • 投稿者:せきたに
  • 投稿日:2021-05-01 14:53:16

『疑惑 JAL123便墜落事故』(角田四郎 著)
104ページ~105ページには
犠牲者の村上良平さん(43歳)会社員 の遺書が記されている。

最初の2行だけを記す。

機体が大きく左右にゆれている
18・30 急に降下中

この2行によって
18時30分に「急に降下中」となる前、
機体が大きく左右に揺れていたことがわかる。

一方、生存者の落合由美さんの手記によると、機体の左右の揺れに関して
次のように記されている箇所がある。

『墜落の夏』(吉岡忍 著)落合由美さんの手記からの引用

 ゆっくりと左右に大きく旋回しているような動きがはじまったのは、酸素マスクをして、しばらくしてからです。

 飛行機はあいかわらず旋回をくり返すように左右の傾きをつづけます。振動などは全然ありません。とにかく、
くり返し、左右に傾いているという揺れ方がつづきました。急な動きとか、ガタガタ揺れるというのでもなく、
スローです。だんだん揺れが激しくなるというのでもありません。

 私の席に近い左の窓から見えたのは、まっ白な雲だけでした。かなり厚い雲で、地上は見えませんでした。

 私は羽田にもどれればいいな、と感じていました。しかし、まだ雲の上で、高度も高いし、ちょっと無理なんじゃ
ないかな、とだんだん不安になってきました。しかし、ライフ・ベストが座席の下にあることがわからないお客様や、
わかっても、ひっぱって取りだすことがわからないお客様も少なくありませんでした。私の近くにも、ベストの場所が
わからなくて、取り乱している若い女性の人たちがいました。そのときになって私は、席を立って、お客様のお手伝いを
はじめたのです。お客様はこのときはじめて、座席ポケットのなかの『安全のしおり』を取りだしました。

 このころになると、機体の揺れは、じっと立っていられないほどでした。激しい揺れ、というのではなくて、前と
同じように、左右に傾く揺れなのですが、その角度が大きくなって、座席につかまって二、三歩、歩いて、お客様の座席
の下のベストをひっぱて、ちょっと座って、また二、三歩という感じでした。まっすぐ歩いて、あたりを見てまわる、
ということはもうできません。

 揺れはいっそう大きくなりました。もう立っていることはできないほどです。救命胴衣をつけ終わってすぐに、
ほとんどいっせいに安全姿勢をとりました。

 私は「56C」にもどりました。L5のスチュワーデスは通路をはさんでふたつうしろの空席に座りました。安全姿勢は、
頭を下げ、膝の中に入れて、足首をつかむんです。うしろのスチュワーデスも私も、席に座って大声で何度も言いました。
「足首をつかんで、頭を膝の中に入れる!」「全身緊張!」。全身を緊張させるのは、衝撃にそなえるためです。
こういうときは、「・・・してください」とは言いません。

 そして、そのとき、窓の外のやや下方に富士山が見えたのです。とても近くでした。このルートを飛ぶときに、もっとも
近くに見えるときと同じくらいの近くでした。夕方の黒い山肌に、白い雲がかかっていました。左の窓の少し前方に見えた
富士山は、すうっと後方に移動していきます。富士山が窓のちょうど真横にきたとき、私は安全姿勢をとって、頭を下げたのです。

(書物からの引用は以上)

村上良平さんが

「機体が左右に大きく揺れている」

と遺書に記された状態は明らかに18時30分よりも前の出来事である。

そして、生存者の落合由美さんはそのときの状態を手記に残されていた。

そうすると、18時30分というのはほとんど全員が安全姿勢を取られた直後で、その時刻から急に降下が
はじまったことになるが、そのときの機体の位置は富士山が左下に見える位置にあったことがわかる。

客室乗務員の遺書

  • 投稿No.14
  • 投稿者:せきたに
  • 投稿日:2021-04-29 12:16:41

『疑惑 JAL123便墜落事故』(角田四郎 著)
105ページには客室乗務員による遺書が記されている。

恐い
恐い
恐い
助けて
気持ちが悪い
死にたくない
まり子
(白井まり子さん) 客室乗務員 当時26歳

乗客の村上良平さんは
「18・30 急に降下中」
と記されている。

上記白井さんの遺書は、ご自身が安全姿勢を取られた後に起きた急降下中に記されたものだろうか。

客室乗務員がこのように記されるということは、どれほど恐かったのだろうと思う。