もう一度 「再調査」活動

  • 投稿No.19
  • 投稿者:せきたに
  • 投稿日:2021-05-08 15:35:31

 御巣鷹山の悲劇に関しては事故当時中学1年生であった次男と高校1年生であった長女の2人の子供さん
を亡くされた犠牲者遺族の 小田周二さん や
事故で多くの仲間を亡くされた元日航客室乗務員の 青山透子さん らが中心となって
「再調査」を求める活動が継続されていて、裁判も始まり、その影響で新たな証言も次々と出てきている
ということらしい。

 最近入手した下記サイトはその人たちによる「再調査」活動について、
2021年3月1日付で編集された動画だという。
 
※投稿No.5で紹介した際にはアドレスをクリックすることによって動画のサイトを開くことが出来る
 リンク設定が出来ていなかったので、改めて紹介しておきたい。

https://www.youtube.com/watch?v=YqPbzreGPXY

墜落するまでのプロセスで二回の急降下があった

  • 投稿No.18
  • 投稿者:せきたに
  • 投稿日:2021-05-06 20:44:55

 墜落直前の急降下はまっさかさまの急降下であったことが落合由美さんの手記から知ることが出来る。

 安全姿勢をとった座席のなかで、体が大きく揺さぶられるのを感じました。
 船の揺れなどというものではありません。ものすごい揺れです。
 しかし、上下の振動はありませんでした。
 前の席のほうで、いくつくらいかはっきりしませんが女の子が「キャーッ」と叫ぶのが聞こえました。
 聞こえたのは、それだけです。
 そして、すぐに急降下がはじまったのです。まったくの急降下です。まっさかさまです。
 髪の毛が逆立つくらいの感じです。頭の両わきの髪がうしろにひっぱられるような感じ。
 ほんとうはそんなふうにはなっていないのでしょうが、そうなっていると感じるほどでした。 
(『墜落の夏』(吉岡忍 著)から落合由美さんの手記の部分を引用)

 ところが、事故機は墜落直前ではないところでも急降下していた箇所があったことが
 犠牲者の遺書によって知ることが出来る。

『疑惑 JAL123便墜落事故』(角田四郎 著)
 河口博次さん(52歳)会社員 の遺書から
 102ページ〜103ページ 

 今6時半だ
 飛行機はまわりながら
 急速に降下中だ
 本当に今迄は
 幸せな人生だった と感謝している 

 上記河口博次さんの遺書は
 同書104ページに掲載の村上良平さん(43歳)会社員
 の以下の箇所とぴったりと符号する。
 
 18・30 急に降下中

 そして、このときの急降下が墜落直前の急降下でなかったことは、同じ村上良平さんが

 18・45 機体は水平で安定して

 と記されていることからわかる。

 以上のことから、墜落直前の急降下とは別に
 18時30分頃からはじまって、18時45分には
 安定した水平飛行におさまっていた急降下があったことが知られる。

 恐い
 恐い
 恐い
 助けて
 気持ちが悪い
 死にたくない
 まり子
(白井まり子さん)客室乗務員 当時26歳

 客室乗務員の遺書は墜落直前の急降下のときに記されたのものであったのか、
 それとも18時30分からはじまった急降下のときに記されたものだろうか?

手記の途中、何も記されていない不可解な空白時間

  • 投稿No.17
  • 投稿者:せきたに
  • 投稿日:2021-05-04 20:26:56

『墜落の夏』(吉岡 忍 著)には生存者、落合由美さんの手記が掲載されているが、
なぜか途中に何も記されていない長い空白の時間が存在する。

(手記Aの部分)
 そして、そのとき、窓の外のやや下方に富士山が見えたのです。とても近くでした。
このルートを飛ぶときに、もっとも近くに見えるときと同じくらいの近くでした。
夕方の黒い山肌に、白い雲がかかっていました。左の窓の少し前方に見えた富士山は、
すうっと後方に移動していきます。
富士山が窓のちょうど真横にきたとき、私は安全姿勢をとって、頭を下げたのです。

(手記Bの部分)
 安全姿勢をとった座席のなかで、体が大きく揺さぶられるのを感じました。
船の揺れなどというものではありません。ものすごい揺れです。
しかし、上下の振動はありませんでした。
前の席のほうで、いくつくらいかはっきりしませんが女の子が「キャーッ」と叫ぶのが聞こえました。
聞こえたのは、それだけです。
そして、すぐに急降下がはじまったのです。まったくの急降下です。まっさかさまです。
髪の毛が逆立つくらいの感じです。
頭の両わきの髪がうしろにひっぱられるような感じ。ほんとうはそんなふうにはなって
いないのでしょうが、そうなっていると感じるほどでした。

(引用は以上)

 (手記Bの部分)は(手記Aの部分)のすぐ後に記されているので、はじめて手記を読むと、
安全姿勢を取った後、すぐにまっさかさまに急降下がはじまって、そのまま墜落したようにも感じてしまう。

 ところが、落合由美さんが安全姿勢を取られたのは富士山を左手に見られたときであり、墜落直前の急降下が
はじまったのは御巣鷹山のすぐ手前の三国山上空であった。

 落合由美さんが安全姿勢を取られたのが18時30分頃であったとすると、墜落直前の急降下がはじまる18時56分頃
まで(手記Aの部分から手記Bの部分まで)の約26分間に渡って何も記されていないのは不可解だ。

富士山の東側を通過

  • 投稿No.16
  • 投稿者:せきたに
  • 投稿日:2021-05-03 08:52:29

『墜落の夏』(吉岡 忍 著)の中で、落合由美さんの手記が記されている。

 私は「56C」にもどりました。

 そして、そのとき、窓の外のやや下方に富士山が見えたのです。とても近くでした。
 
 このルートを飛ぶときに、もっとも近くに見えるときと同じくらいの近くでした。

 夕方の黒い山肌に、白い雲がかかっていました。

 左の窓の少し前方に見えた富士山は、すうっと後方に移動していきます。

 富士山が窓のちょうど真横にきたとき、私は安全姿勢をとって、頭を下げたのです。

 ※落合由美さんの上の描写によって、日航機が相模湾上空において異変発生後、大月上空に向かうまでのプロセスで富士山の東側を通過していたことがわかる。

機体が大きく左右にゆれている

  • 投稿No.15
  • 投稿者:せきたに
  • 投稿日:2021-05-01 14:53:16

『疑惑 JAL123便墜落事故』(角田四郎 著)
104ページ~105ページには
犠牲者の村上良平さん(43歳)会社員 の遺書が記されている。

最初の2行だけを記す。

機体が大きく左右にゆれている
18・30 急に降下中

この2行によって
18時30分に「急に降下中」となる前、
機体が大きく左右に揺れていたことがわかる。

一方、生存者の落合由美さんの手記によると、機体の左右の揺れに関して
次のように記されている箇所がある。

『墜落の夏』(吉岡忍 著)落合由美さんの手記からの引用

 ゆっくりと左右に大きく旋回しているような動きがはじまったのは、酸素マスクをして、しばらくしてからです。

 飛行機はあいかわらず旋回をくり返すように左右の傾きをつづけます。振動などは全然ありません。とにかく、
くり返し、左右に傾いているという揺れ方がつづきました。急な動きとか、ガタガタ揺れるというのでもなく、
スローです。だんだん揺れが激しくなるというのでもありません。

 私の席に近い左の窓から見えたのは、まっ白な雲だけでした。かなり厚い雲で、地上は見えませんでした。

 私は羽田にもどれればいいな、と感じていました。しかし、まだ雲の上で、高度も高いし、ちょっと無理なんじゃ
ないかな、とだんだん不安になってきました。しかし、ライフ・ベストが座席の下にあることがわからないお客様や、
わかっても、ひっぱって取りだすことがわからないお客様も少なくありませんでした。私の近くにも、ベストの場所が
わからなくて、取り乱している若い女性の人たちがいました。そのときになって私は、席を立って、お客様のお手伝いを
はじめたのです。お客様はこのときはじめて、座席ポケットのなかの『安全のしおり』を取りだしました。

 このころになると、機体の揺れは、じっと立っていられないほどでした。激しい揺れ、というのではなくて、前と
同じように、左右に傾く揺れなのですが、その角度が大きくなって、座席につかまって二、三歩、歩いて、お客様の座席
の下のベストをひっぱて、ちょっと座って、また二、三歩という感じでした。まっすぐ歩いて、あたりを見てまわる、
ということはもうできません。

 揺れはいっそう大きくなりました。もう立っていることはできないほどです。救命胴衣をつけ終わってすぐに、
ほとんどいっせいに安全姿勢をとりました。

 私は「56C」にもどりました。L5のスチュワーデスは通路をはさんでふたつうしろの空席に座りました。安全姿勢は、
頭を下げ、膝の中に入れて、足首をつかむんです。うしろのスチュワーデスも私も、席に座って大声で何度も言いました。
「足首をつかんで、頭を膝の中に入れる!」「全身緊張!」。全身を緊張させるのは、衝撃にそなえるためです。
こういうときは、「・・・してください」とは言いません。

 そして、そのとき、窓の外のやや下方に富士山が見えたのです。とても近くでした。このルートを飛ぶときに、もっとも
近くに見えるときと同じくらいの近くでした。夕方の黒い山肌に、白い雲がかかっていました。左の窓の少し前方に見えた
富士山は、すうっと後方に移動していきます。富士山が窓のちょうど真横にきたとき、私は安全姿勢をとって、頭を下げたのです。

(書物からの引用は以上)

村上良平さんが

「機体が左右に大きく揺れている」

と遺書に記された状態は明らかに18時30分よりも前の出来事である。

そして、生存者の落合由美さんはそのときの状態を手記に残されていた。

そうすると、18時30分というのはほとんど全員が安全姿勢を取られた直後で、その時刻から急に降下が
はじまったことになるが、そのときの機体の位置は富士山が左下に見える位置にあったことがわかる。

客室乗務員の遺書

  • 投稿No.14
  • 投稿者:せきたに
  • 投稿日:2021-04-29 12:16:41

『疑惑 JAL123便墜落事故』(角田四郎 著)
105ページには客室乗務員による遺書が記されている。

恐い
恐い
恐い
助けて
気持ちが悪い
死にたくない
まり子
(白井まり子さん) 客室乗務員 当時26歳

乗客の村上良平さんは
「18・30 急に降下中」
と記されている。

上記白井さんの遺書は、ご自身が安全姿勢を取られた後に起きた急降下中に記されたものだろうか。

客室乗務員がこのように記されるということは、どれほど恐かったのだろうと思う。

Re: JAL123便の飛行経路

  • 投稿No.13 元投稿No.12 池田昌昭さんへの返信
  • 投稿者:管理人[ 管理者 ]
  • 投稿日:2021-04-27 21:47:07

> 青山透子著『日航123便 墜落の新事実』(河出書房新社、105〜106ページ)に述べられている。
>  JAL123便は、静岡県藤枝市上空を超低空飛行し、北方角へ向かい、富士山東側へと飛行したのである。
>  また同じJAL123便は同時刻、藤枝市にごく近い焼津市でも、目撃されている(『日航ジャンボ機墜落 朝日新聞の24時』文庫版、42ページ)。

池田昌昭様 ご意見ありがとうございます。

書物から引用されている箇所の一部分を以下に記させていただきます。

『日航123便 墜落の新事実』(青山 透子 著)河出書房新社
104ページ〜105ページ
 2015年9月、「青山さんに聞いてもらいたい目撃情報がある」ということで突然出版社を訪ねてきてくれた女性がいる。その人は1985年8月12日に目の前を異常なほど低空で飛ぶ日本航空123便を見た、とのことだった。担当編集者がたまたま在席していたが、次の予定があって私の代わりに少し話を聞いて職場の名刺と連絡先を受け取り、そのままになってしまっていた。今回の出版が決まって連絡をすると快く対応してくださり、改めて話を聞く機会を得た。
 現在は東京にて福祉関係の仕事をしていらっしゃる小林美保子さんは、1985年当時22歳で、実家から静岡県藤枝市にある運輸関係の会社まで車で通勤していた。8月12日のあの日は、お盆前で仕事が忙しく、いつも17時半で終わる予定が18時30分になってしまった。
 タイムカードに打刻をして階段を下りて外に出た瞬間、「キャーン、キャーン」と二度、すさまじい女性の金切り声のような音を聞いた。絶叫マシーンに乗った人の悲鳴のような凄い高音で、驚いて頭上を見上げると目の前を低く右斜めに傾きながら飛行しているジャンボジェット機が見えた。 
 ちょうど会社の敷地内で前方に東明高速道路が見える位置だった。自分の背中側から飛んできたジャンボ機は白い塗装に日航のシンボルカラーである赤と紺の線が入っていた。駿河湾の方向から富士山のある北の方角に向かって、ゆっくりと右旋回しながら飛行しており、はっきりと窓も見えるほど高度が低い状態だった。飛行そのものは安定している感じだった。それにしてもいつもの航空路ではないこの場所で低空飛行のジャンボ機を見るとは思ってもいなかった。

『日航ジャンボ機墜落』(朝日新聞の24時)朝日新聞社会部編
42ページ
●午後6時半過ぎ、静岡県焼津市石津、漁業原崎三夫さん(57)は飛行機音に気づいて見上げると、ジャンボ機が翼の上下を三度ほど繰り返して北の雲の中に消えた。「いつもは西へ向かうのに、真っすぐ北上したので変だなと思った。」

●国鉄静岡駅南側では、静岡市田町三丁目、公務員飯塚利明さん(36)が、西南から  
進入して来て、駅方向に右旋回し、今度は左へ翼を傾けてS字状に旋回するジャンボ機を見た。「変な動きをするので、墜落するのではないかと直感的に思った。」

JAL123便の飛行経路

  • 投稿No.12
  • 投稿者:池田昌昭
  • 投稿日:2021-04-27 08:52:55

 1985年8月12日午後6時24分過ぎ、伊豆急河津駅前でのインタビューが冒頭に出てくる、
YouTube「日航123便の謎に迫る⓼ 報告書の飛行経路図は間違っている?!」(2020年5月24日)に出ていた
タクシー運転手(当時)二人のうちの一人の方に、かつて電話取材したことを思い出す。
 その方に限らず、伊豆半島東海岸河津町で取材した方々のテーマは、当日午後6時24分過ぎに「ドーン」と、
河津町に響いた轟音のことだった。
 JAL123便の飛行方向については聞かなかったが、たぶん冒頭インタビューの
YouTubeの通りだったのだろう。
 飛行高度も、下げていたのが分かる。
 つまり、JAL123便は午後6時24分過ぎには、それまでの2回の「異変」と同様に、羽田空港に戻ろうとしていた。
 そして午後6時半には、JAL123便は静岡県藤枝市上空を北方角に向かい、ゆっくりと右旋回しながら超低空飛行したことが、
青山透子著『日航123便 墜落の新事実』(河出書房新社、105〜106ページ)に述べられている。
 JAL123便は、静岡県藤枝市上空を超低空飛行し、北方角へ向かい、富士山東側へと飛行したのである。
 また同じJAL123便は同時刻、藤枝市にごく近い焼津市でも、目撃されている(『日航ジャンボ機墜落 朝日新聞の24時』文庫版、42ページ)。

目撃情報について

  • 投稿No.11
  • 投稿者:憂国人
  • 投稿日:2021-04-26 19:11:19

せきたにさんの投稿文を読みますとJAL123便は相模湾から伊豆半島を横断することなくライトターンして北上し
富士山の東側を飛行して大月方面に向かったのではないかと推理されています。
私も以前に御巣鷹山ゲストブックにこのことを書きました。
その根拠は落合さんが「窓の左下に富士山が見えた」という証言です。
彼女は左側の座席に着席していたので123便は富士山の東側を北上したことになります。
しかし、青山透子さんの「墜落の新事実」を読みますと静岡県藤枝市の会社に勤めていた小林美保子さんが仕事が
終わり6時30分頃に会社を出たところ「キャーン、キャーン」と2度、すさまじい女性の金切り声のような音を聞き
驚いて頭上を見上げるとジャンボ機が見えたと証言しています。
おまけに機体の左下のお腹部分に円筒形の赤色が張り付いているように見えたと書かれています。 
「キャーン、キャーン」との女性の悲鳴にも似た甲高い音は機内の人達の悲鳴だったのではないかとも感想が記されています。

私は友人で元全日空の整備士さん(この方は元航空自衛隊の整備士も経験されています。)に上記の件に付いて質問してみました。
「キャーン、キャーン」という音は民間機であれ戦闘機であれ発することは無い。
機内の乗客の叫び声など地上で聞こえるはずが無い。 
窓が見えたり機体の様子が見える高度は500m以下で無いと無理だろうとのことでした。 
ところが事故報告書に依りますとこの付近での高度は7470mとなっていて全く辻褄が合いません。
赤色の腹部に張り付いているように見えた物体を青山透子さんは誘導ミサイルではないかと推理されていますが民間機を標的にして
ミサイル実験をするなど考えられない。 との回答でした。
私もこの記述には以前から疑問に思っていましたが、友人の回答に同意する立場です。
色々の本を読みますと沢山の目撃情報が寄せられていますが、私は同じ場所で同じ時刻に複数人の同一目撃情報でなければ
信用出来ないと理解しています。
飛行航跡に至っては事故調の発表した航跡が各書籍に載せられていますが高度と共に全く信用が出来ないデーターだと私は思います。
皆さんの反対意見も謙虚に受け止めたいと思いますので是非投稿して下さい。

事故翌日に発表された航跡図の怪

  • 投稿No.10
  • 投稿者:せきたに
  • 投稿日:2021-04-25 08:45:15

 『疑惑 JAL123便墜落事故』(角田四郎さん著)58ページには次のような記載がある。

 「何故、テレビ局や新聞社によって、飛んでいた場所が異なるのか。私には理解出来なかった。
 発表は1ヶ所、つまりニュース・ソースは一つのはずである。
 (事故の翌日に新聞に掲載された航跡図について)
 航跡には明らかな違いがありながら、使われた地図やマーク、説明文字はほぼ同一である。
 海を示す横線、県境を示す点線、羽田や横田の空港マーク、墜落地点マーク、方位を示すNマーク、
 これらは完全に同一のものであり、挿入された文句や字体まで同様であった。
 このことから、このニュースの出所は一つであるはずなのに、重要な航跡が大きく異なっていた。
 こんなことが何故起こるのであろう。新聞社が勝手に航跡を変えるなど、まず絶対にない。
 考えられるのはただ一つであろう。
 それは発表する窓口、つまりニュース・ソースの側で、幾度も手を加えて航跡を変更しているからである。」
(書物からの引用は以上)

 興味深いのは、8月13日朝刊の日本経済新聞の航跡図によると、相模湾上空で異変が発生した後、
事故機は伊豆半島を西に横断せず、北上したことになっていて、不思議な航跡図だ。
ところが、驚くべきことだが、地上からの目撃情報に落合証言や犠牲者の遺書を加えて冷静に考えてみると、
相模湾上空で異変が発生した直後にライトターンし、伊豆半島を北上した可能性があることが浮かび上がってくる。

※目撃情報
『疑惑 JAL123便墜落事故』21ページ~ 
 東伊豆、河津町のタクシー運転手、近持芳太郎さん(58歳)と渡辺武夫さん(51歳)は河津駅前のベンチで休憩中に、この瞬間を目撃した。
 「海側の北東上空で雷のような〈ボーン〉という音がした。見上げるとジャンボ機は機体後方から灰色の煙を出して駅の上まで水平飛行した。
(中略)煙はバスが急坂を上るときに出す排ガスの色のようだった。機体は後部が下がっている感じ。
(中略)ジャンボ機は駅上空を過ぎると大きく右旋回し、北側へ向かい、いつも見るコースから外れた。

 また、同駅の北西の山側で畑仕事をしていた同町役場職員渡辺穣さん(45歳)の証言は
「午後6時半前、ボーンという音で上空を見た。
雲の切れ間からジャンボ機がふだんの二倍近い大きさで見えた。大きく右旋回したので不思議に感じた」という。
(目撃情報は以上)

※以下 落合証言 (『墜落の夏』(吉岡忍さん著からの引用)
 
 ゆっくりと左右に大きく旋回しているような動きがはじまったのは、酸素マスクをして、しばらくしてからです。

 ダッチロールという言葉は、知りませんでした。飛行機はあいかわらず旋回をくり返すように左右の傾きをつづけます。
振動などは全然ありません。とにかく、くり返し、左右に傾いているという揺れ方がつづきました。
急な動きとか、ガタガタ揺れるというのでもなく、スローです。だんだん揺れが激しくなるというのでもありません。

 私の席に近い左の窓から見えたのは、まっ白な雲だけでした。かなり厚い雲で、地上は見えませんでした。
 
 そのうちに酸素が出なくなりました。

 ちょうどそのころになって、私のうしろのL5(最後部左側)ドア受持ちのスチュワーデスが、まわりのお客様に
「座席の下にある救命胴衣を取りだして、つけてください」という指示を出しました。

 前のほうでも、いっせいにベストの着用がはじまっている様子が見えました。

 私はすぐに座席下から救命胴衣をひっぱりだして頭からかぶりました。

 私は羽田にもどれればいいな、と感じていました。
しかし、まだ雲の上で、高度も高いし、ちょっと無理なんじゃないかな、とだんだん不安になってきました。

 このころになると、機体の揺れは、じっと立っていられないほどでした。激しい揺れ、というのではなくて、
前と同じように、左右に傾く揺れなのですが、その角度が大きくなって、座席につかまって二、三歩、歩いて、
お客様の座席の下のベストをひっぱて、ちょっと座って、また二、三歩という感じでした。まっすぐ歩いて、
あたりを見てまわる、ということはもうできません。

 揺れはいっそう大きくなりました。もう立っていることはできないほどです。
救命胴衣をつけ終わってすぐに、ほとんどいっせいに安全姿勢をとりました。
そのときには、眼鏡をはずしたり、先のとがったものは座席ポケットにしまったりとか、
上着があれば、衝撃の際の保護になるように着用してください、と指示するのですが、
そんな時間的余裕はありませんでした。

 私は「56C」にもどりました。

 そして、そのとき、窓の外のやや下方に富士山が見えたのです。とても近くでした。このルートを飛ぶときに、
もっとも近くに見えるときと同じくらいの近くでした。
夕方の黒い山肌に、白い雲がかかっていました。左の窓の少し前方に見えた富士山は、すうっと後方に移動していきます。
富士山が窓のちょうど真横にきたとき、私は安全姿勢をとって、頭を下げたのです。

 以上の証言から、落合由美さんが富士山を左下に見るまで、飛行機は左右の揺れは記されているが、急降下については記されていない。

 ところが、犠牲者の村上良平さんの遺書によると、

 機体が大きく左右にゆれている。
 18:30 急に降下中

とある。

「機体が大きく左右にゆれている。」

 は先ほどの落合さんの証言の中で「56C」の席に戻られる直前の状態と一致する。

 犠牲者の村上良平さんはそのあと、
 18:30 急に降下中
 と記されており、墜落を予感されているが、同じ村上良平さんが
 18:45 機体は水平で安定して・・・ 
と記されていることから、18:30から始まった急降下は墜落前の急降下ではなかった。
 が、機体が左右にゆれている直後から急降下が始まったのであれば、それは落合由美さんが、富士山を左手に見て、
安全姿勢を取られた直後のことであったと考えれば両者は一致する。

 18:30 急降下後、機体は大月上空に向かっているが、大月では目撃情報がある。

 以下、『疑惑 JAL123便墜落事故』の著者 角田四郎さんによる目撃情報

 この事故が発生した1985年8月12日、私は山梨県大月市と神奈川県相模湖の中間に位置する国鉄(現JR)中央線梁川駅にほど近い、
とある都内のスーパーマーケット会社保有の私設キャンプ場にいた。
当時、私が在住していた東京・港区六本木の町内会活動のいっかんで、子供達のサマーキャンプに参加してのことである。
私には少々山歩きの経験があることに子供会の役員が目をつけ請われての参加であった。
むろん私の娘も参加していたので引き受けたわけである。

 12日は日程4日目であった。この日は私の指導で近くの倉岳山(990メートル)へハイキングに出かけた。
夏の陽がジリジリ照りつける暑い日であった。
どうにか全員無事に全行程を歩きぬいて桂川河川敷に近いキャンプ場にたどり着いたのが午後3時過ぎ。
4時頃、突然、空が真っ暗になり、バケツの水をひっくり返した様な大ツブの雨がたたきつけ、カミナリが近くで鳴り響いた。
約1時間話し声もかき消さんばかりの雷雨が続き、降り始めと同じように突然やんだ。

 雨が上がった空は一変して、澄み切った青空が広がり涼風を運んできた。

 夕食を少しでも早く取り、子供が楽しみにしていたキャンプ・ファイアーを可能な限り実行してやろうということになり、
雨の中で私が中心となって夕食作りを始めた。その最中キャンプ・ファイアーもやることを決定。
準備があるので、開始を40分遅らせて、7時40分とした。すでに6時をまわっていた。休む間もない。
大人達の食事をいっきに作り上げたとき、私の身体は服のまま泳いだように全身汗みどろとなっていた。
さし出されたジュースをのみほして時計を見ると、6時40分近く、間に合った・・・
という安堵と充実感で、その時の時計の針を今もハッキリ憶えている。

 自分は夕食を即座に口にする気持ちにはなれなかった。着替えも必要である。
 私はとりあえず涼を求めて、桂川の河辺にある高台に歩を進めた。
そして大きく手を広げて天を仰いだその時、私の目に場違いと思える大きな飛行機の機影が飛び込んできた。

 ほぼ南を向いて立っていた私の左手に、北から南へ向かって、少し右に傾いた民間航空機であった。
民間機と瞬時に思ったのは、窓が一列にたくさん見えたからである。
見ていると、すぐに水平飛行に戻り、ゆっくりと南下して行く。

 「あれ、ちょっと変わった飛行機だなァ」と考えたことを憶えているが、尾翼があるとかないとか、
堕ちるのでは、などとはみじんも思っていなかった。
「どこへ行くんだろう、こんな所を飛んで・・・この辺に飛行場もないし・・・」と思ったが、次の瞬間、
「あ、横田や厚木の米軍基地が近いんだ」と思い、その後は米軍のチャーター機と決めつけて見ていた。

 大きな飛行機という印象も、やたら窓がはっきり見えていたからである。高度もそれゆえに低く感じたし、
速度も実にゆっくりに見えていた。ただ足元の桂川のせせらぎのせいで、全く音はなかった。
その機の窓を見ていた私は年がいもなく、「あれぐらい低いと、乗っている人もこっちを見ているかもしれないな」と思い、
上げた手を機に向かって振ってみたりした。
やがて飛行機はふたたび右に少し傾きながら、我々が昼間登ったばかりの倉岳山の東側を南西に向けて山影に消えた。

 私はまた風にあたりながら足腰の屈伸運動や深呼吸をした。目の前の川向こうの山が夕日に映えていた。
そのとき、飛び去ったと思った飛行機がその山の右へひょっこり顔を出した。
今度は西に向かっている。さっきよりは距離があって小さく見えるが、あまり上昇していないと感じた。
今度はすぐに次の山影にかくれて見えなくなった。

 私は「あの飛行機やっぱりちょっとおかしいな」とだけ感じた。それは米軍基地は東の方角だからであった。
「あの高度、速度は、これから着陸する感じだったが」とも思いながら、私は振り返って自分のバンガローに向かった。

 大きな飛行機を見ていたのは6時40分~41分頃から43分~44分の間であった。

(角田四郎さんによる目撃情報は以上)
 
 以上のことから、墜落直前の急降下ではないが、18:30頃、左手下に富士山を見る位置から大月上空までの区間で、
おそらくは着陸を前提としての急降下があったことになる。

 また、落合由美さんが、富士山を左手に見て、安全姿勢を取られたのは必然的に18:30頃、
急降下の始まる直前のことであったということになってくる。

 ※通常の航路からはずれた日航機が18:30頃に富士山の東側を通過したというのであれば、相模湾上空で
  異変発生後、伊豆半島を西に横断したのか、それとも北上したのかの航跡に関してはおのずと決着が付く。