事故ではなく事件だ
- 投稿No.30
- 投稿者:佐藤スポーツ整体
- 投稿日:2021-06-17 12:36:05
池田昌昭さんから紹介され、このサイトを見つけました。
当時の社会情勢からして怪しいと言わざるを得ない。
1)プラザ合意を呑ませるために中曽根を脅迫するため
2)プラザ合意に反対していた関西の財界大物4名を全員暗殺するため
3)グリコ森永の実行犯を殺害し証拠隠滅するため
4)松下トロンOSの技術者17人を抹殺するため
5)JAL123便が核弾頭を輸送していることを米軍が突き止め、ミサイルで攻撃した
6)核弾頭輸送を隠蔽するため、自衛隊は日航機を御巣鷹山までおびき寄せ撃墜した
7)JAL123便の生存者は数十名以上いたが、ほぼ全員VX毒ガスなどの手法で殺された
知られたら困るから隠蔽したのです。
18時30分に富士山の東側を通過したことに気付きにくい理由 その7
- 投稿No.29
- 投稿者:せきたに
- 投稿日:2021-06-13 14:40:31
落合由美さんの手記の中で、18時30分に富士山の東側を通過したことに気付きにくくさせている最大の理由はおそらく次の箇所だろう。
「そのうちに酸素が出なくなりました。いつだったか、私がフライトをしていたとき、お客様から、酸素マスクは何分くらいもつのか、とたずねられたことがありました。全員が吸った場合、18分くらい、と計算したことがあります。そのくらいの時間が経過していたのかもしれません。でも、ほとんどのお客様は、そのままマスクをしていました。」
上記の記載があって、その後に富士山の東側を通過したことが記されているので、富士山の東側を通過したときには既に酸素マスクから酸素が出なくなっていたことは明らかだ。
問題なのは
「全員が吸った場合、18分くらい、と計算したことがあります。」
と記されているころで、これをそのときのフライトにおいて実際に酸素マスクが18分間もったのだと解釈すると間違ってしまう。
実際に酸素マスクが18分間もったと解釈すると、離陸後最初の異変が起きて酸素マスクが下りたのが18時20分頃だとしても、富士山の東側を通過したのは18時38分よりも後だったことになる。
それで何が都合が悪いのかと言われるかもしれないが、犠牲者の村上良平さんは遺書に、
機体が大きく左右にゆれている
18・30 急に降下中
と記されている。
一方、生存者の落合由美さんは
「飛行機はあいかわらず旋回をくり返すように左右の傾きをつづけます。振動などは全然ありません。とにかく、くり返し、左右に傾いているという揺れ方がつづきました。」
と記されている箇所があり、その表現は
村上良平さんの
機体が大きく左右にゆれている
の箇所とピッタリと一致しているが、落合由美さんはそのあたりを飛行しているときの情景描写として、
「私の席に近い左の窓から見えたのは、まっ白な雲だけでした。かなり厚い雲で、地上は見えませんでした。」
と記されている。
更に、酸素マスクの装着に続いてほとんど間をおかずにライフベストの装着が始まったようだが、そのあたりでも
「私は羽田にもどれればいいな、と感じていました。しかし、まだ雲の上で、高度も高いし、ちょっと無理なんじゃないかな、とだんだん不安になってきました。」
と記されており、酸素マスクの装着からライフベストの装着がはじまるまで一貫して機体が雲の上にあったことが記されている。
そして、その延長として、
揺れはいっそう大きくなりました。もう立っていることはできないほどです。救命胴衣をつけ終わってすぐに、ほとんどいっせいに安全姿勢をとりました。
とあり、その言葉に続いて
「安全姿勢をとる直前、窓の外のやや下方に富士山が見えたのです。とても近くでした。このルートを飛ぶときに、もっとも近くに見えるときと同じくらいの近くでした。夕方の黒い山肌に、白い雲がかかっていました。左の窓の少し前方に見えた富士山は、すうっと後方に移動していきます。富士山が窓のちょうど真横にきたとき、私は安全姿勢をとって、頭を下げたのです。」
という言葉が一連の文章として綴られている。
(その8に続く)
18時30分に富士山の東側を通過したことに気付きにくい理由 その6
- 投稿No.28
- 投稿者:せきたに
- 投稿日:2021-06-08 20:48:33
『疑惑 JAL123便墜落事故(角田四郎 著)』21ページには
東伊豆、河津駅の北西の山側で畑仕事をしていた同町役場職員渡辺穣さん(45歳)の証言は「午後6時半前、ボーンという音で上空を見た。雲の切れ間からジャンボ機がふだんの二倍近い大きさで見えた。
と記されている。
この証言から何がわかるかと言えば、上空を見上げたとき、ジャンボ機が雲の切れ間から見えたということは、東伊豆上空の空は晴れており、ところどころに雲が出ているような天気であったということ。そして、機体は雲よりも上の位置にあったことを意味する。更に、そのときの高度についてはふだんの二倍近い大きさで見える高度のところを飛行していたということだ。
その場所を飛行するふだんの高度が地上7,000メートルぐらいであると言われているが、地上からふだんの二倍近い大きさで見えたということは、そのときはずっと低い高度を飛行していたことになる。
もう一つの疑問点は、その時点でどうしてふだんの二倍近い大きさで見えたのかという点だ。
そのことを考えるとどうしても離陸後ベルトサインがはずれて客室乗務員が席を立ち、子供たちに向けて夏休みのキャンペーン商品であるぬいぐるみのグッズを配り始めたときのタイミングで起きたと考えられる異変のことが気になってくる。
落合由美さんの手記の中で、
「そろそろ水平飛行に移るかなというとき、〈パ-ン〉という、かなり大きい音がしました。」
このとき、機体は水平飛行に近づいていたので、ベルトサインが消えたものの、正確にはまだ上昇中であったと思われる。
離陸後一回目に起きた異変によって、客室内では酸素マスクが下りてきている状態だったので、機内で急減圧が生じている可能性があるかもしれないと考えたパイロットたちは機体を通常の高度まで上げずに、異変が生じた時の高度を維持し、そのまま二回目の異変が起きるまで水平飛行したのではないか。
そうであればその水平飛行の間に乗客の大半が酸素マスクを装着したものと思われる。
(その7に続く)
18時30分に富士山の東側を通過したことに気付きにくい理由 その5
- 投稿No.27
- 投稿者:せきたに
- 投稿日:2021-06-07 21:50:37
東伊豆、河津駅の北西の山側で畑仕事をしていた同町役場職員渡辺穣さん(45歳)の証言は「午後6時半前、〈ボーン〉という音で上空を見た。
(『疑惑 JAL123便墜落事故 角田四郎著 21ページからの抜粋)
とあるが、そのときの異変について、機内におられた落合由美さんは手記の中で次のように語っておられる。
「やはり「パーン」という音と同時に、白い霧のようなものが出ました。
はじめはスチュワーデスもそれぞれの席に座って酸素マスクをしていましたが、しばらくして、お客様のマスクを直したりして、まわっていました。
このときも、荷物などが飛ぶということもなく、機体の揺れはほとんど感じませんでした。しかし、何が起きたのだろうと、私は酸素マスクをしながら、きょろきょろあたりを見まわしていました。」
(『墜落の夏』(吉岡忍著)から落合由美さんの手記の部分からの抜粋)
紛らわしくさせているのは、落合由美さんが手記の最初の方で
「そろそろ水平飛行に移るかなというとき、〈パ-ン〉という、かなり大きい音がしました。」
という言葉の中で〈パーン〉と記されている音と、もう少し後で上記の
「やはり「パーン」という音と同時に、白い霧のようなものが出ました。」
と記されているところで、もう一度〈パ-ン〉という同一の言葉が使用されているところにある。
文字にすると同じ言葉なので、一見最初の〈パーン〉と二度目に出てくる〈パーン〉は同一時刻に起きた音を繰り返し語られているように受け取ってしまいやすくなっている。
ところがそうではなさそうだ。
二度目の〈パーン〉のときには
「このときも、荷物などが飛ぶということもなく、機体の揺れはほとんど感じませんでした。」という文章は「このときも」という言葉から始まっており、その言葉はそのときに起きた異変が離陸後初めてのものではなかったことを表現している。
また、そのときの付帯状況として、客室乗務員が「お客様のマスクを直したりして、まわっていました。」と併せて記されており、そうすると二度目の〈パーン〉のときには既に酸素マスクが下りていたことになるので、その時点(東伊豆、河津駅の上空)よりも前の段階で別の異変があったことが裏付けられている。
(その6に続く)
Re: JAL123便の飛行経路 (2)
- 投稿No.26 元投稿No.25 池田昌昭さんへの返信
- 投稿者:管理人[ 管理者 ]
- 投稿日:2021-05-26 21:56:25
池田昌昭様、投稿ありがとうございます。
航路について、事故調査委員会発表のものよりも実際はもっとずっと東側を飛行していたのではないかということは『疑惑 JAL123便墜落事故』 (角田四郎著)の91ページにも著者の取材録が記されており、村上良平さんの遺書(18・45 機体は水平で安定して 18・46 着陸が心配だ)とも一致するので確からしいですね。
「あの日は私の誕生日なので、よく憶えています。町の南側にある今熊山(八王子市美山町)の方向から、大きな飛行機が現われ、北北東の方向へ水平にゆっくり飛んでいた。秋川や町の上空を横切って日の出町方向の山へ消えました。五日市高校の上空あたりを飛んでいる様子でした。横田基地に降りると思いましたが、普段米軍機は低空でこんな所を飛ばないので墜ちるのでは・・・・・・と感じました。時間は午後6時45分頃の20~30秒間です。」〈東京都西多摩郡五日市町入野750-1 南澤輝明さん(35)会社役員〉(筆者取材)
この証言は非常に大きな意味を持つ。地図上で見ると、日航機が羽田方向から北よりに向きを変えている時点の証言であり、ここが迷走飛行中の最東端地という証拠であるからだ。
(書物からの引用は以上)
上の目撃情報は富士山の東側を通過し、大月上空をループ飛行した後、横田基地の近辺まで行ったあたりのものでしょうか。
JAL123便の飛行経路 (2)
- 投稿No.25
- 投稿者:池田昌昭
- 投稿日:2021-05-24 15:53:08
JAL123便の飛行経路図を示してある『事故調報告書』137ページの「JA8119飛行経路略図」で最も不思議なのは、JAL123便が米軍横田基地に着陸しようと、横田基地の目前まで行っていたことになっていないことと、もう一つは、JAL123便が富士山の西側を飛行したことになっている点である。
ではなぜ、JAL123便が実際には、富士山の東側を飛行したにもかかわらず、事故調の「飛行経路略図」には、富士山の西側を飛行したことになっているのか。
JAL123便が着陸しようとした米軍横田基地からJAL123便の飛行コースを離そう、離そうとしている黒幕の意図が見え見え。
いわば遠回りをして、JAL123便を富士山の西側を飛行したように見せ掛け、米軍横田基地着陸コースから離そう、離そうとした。そのことは、事故調の「飛行経路略図」を見れば、一目瞭然である。
なおJAL123便が午後6時30分に、どこを飛行したかの目撃談がある。ただし時間は記述されてはいないが、前の文脈から推測するに、午後6時半の少し前と思われる。
「国鉄静岡駅南側では、西南から進入して来て、駅方向に右旋回し、今度は左へ翼を傾けてS字状に旋回するジャンボ機を見た」(『日航ジャンボ機墜落 朝日新聞の24時』文庫版、42ページ)。
午後6時30分に静岡市の先の、静岡県藤枝市上空でしかも超低空飛行させられた機内からは、地上の道路も見えたのかもしれない。
18時30分に富士山の東側を通過したことに気付きにくい理由 その4
- 投稿No.24
- 投稿者:せきたに
- 投稿日:2021-05-21 20:55:52
「ゆっくりと左右に大きく旋回しているような動きがはじまったのは、酸素マスクをして、しばらくしてからです。
「パーン」という音から、たぶん10分くらいしてからのように思います。」
(『墜落の夏(吉岡忍著)』落合由美さんの手記からの抜粋)
落合由美さんは「パーン」という音から、10分くらいしてからゆっくりと左右に大きく旋回しているような動きが
はじまったと言われている。
一方で〈ボーン〉という音を聞かれた直後の機体の様子について、地上からの目撃者は次のように語っておられる。
東伊豆、河津町のタクシー運転手、近持芳太郎さん(58歳)と渡辺武夫さん(51歳)は河津駅前のベンチで休憩中に、
この瞬間を目撃した。
「海側の北東上空で雷のような〈ボーン〉という音がした。見上げるとジャンボ機は機体後部から灰色の煙を出して駅の
上まで水平飛行した。
「駅の上まで水平飛行した」とあるので、ゆっくりと左右に大きく旋回するような動きはこの時点ではまだ始まっていない。
犠牲者の村上良平さんの遺書には
機体が大きく左右にゆれている
18・30 急に降下中
と記されてあった。
ということは、機体がゆっくりと左右に大きく旋回しているような動きがはじまったのは地上からの目撃者が上空で
〈ボーン〉という音を聞いた後で、かつ18時30分よりは前のことであったことになる。
ところで、離陸後、シートベルトのサインが消えた時刻に関する考察で、角田四郎さん著 『疑惑 JAL123便墜落事故』
の250ページには次のように記されている。
『事故後、「日航123便」を避ける乗客が増えたことや日航としてもイメージ・ダウンになることを嫌って、
この便名を欠番にすることを決定し(1985年)9月の秋のダイヤから「123便」が消えることになった。
その最終便に登場した記事があったのを記憶に残していた。
「事故機同様、12分遅れて離陸し8分後の18時20分にベルト・サインが消えた。
これは好天時の平均的時間で、事故機も同様であったと思われる」新聞記事は毎日であったと思う。』
事故機は18時12分に離陸しているので、記事の内容通りだとすれば離陸後、シートベルト着用のサインが消えた
時刻は18時20分頃であったと考えられる。
(書物からの引用は以上)
村上良平さんの遺書が正しければ、機体が左右に揺れはじめたのは18時30分よりも前のことだ。
一方で落合由美さんは機体が左右に揺れはじめた地点から約10分前に〈パーン〉という音で酸素マスクが
降りてきたと言われている。
機体が左右に揺れはじめた地点から落合由美さんの感覚で約10分前ということだが、具体的には離陸後、
まだシートベルトのサインが点灯していた時間帯は該当しない。
そうすると、〈パーン〉という音が鳴って酸素マスクが降りてきたのは離陸後、シートベルトのサインが
消えて客室乗務員が席を立ち、子供たちに向けて夏休みのキャンペーン商品となっていたミッキーマウスのグッズを
配り始めたあたりの時刻に特定されてくる。
(その5に続く)
18時30分に富士山の東側を通過したことに気付きにくい理由 その3
- 投稿No.23
- 投稿者:せきたに
- 投稿日:2021-05-19 22:17:36
落合由美さんの証言で「パーン」という音がしたのは離陸後のどの地点だったのだろうか?
『墜落の夏(吉岡忍 著)』に記されている落合由美さんの証言から「パーン」という音と
その付帯状況が記されている箇所を抜粋してみると、
「禁煙のサインはすぐに消えたのですが、着席のサインが消えていたかどうか、はっきりしません。
そろそろ水平飛行に移るかなというとき、「パ-ン」という、かなり大きい音がしました。
「パーン」という音とほとんど同時に、酸素マスクが自動的に落ちてきた。」
一方で生存者の一人、川上慶子さんに(1985年)8月19日に高崎の病院で看護師により行われたインタビューの中で
「羽田を離陸して「しばらくして、スチュワーデスがミッキーマウスのお人形グッズを配り始めた(読売)とある。
スチュワーデスたちはベルト・サインの点灯が消えたことを確認してから席を立ったであろうと思われるので、
離陸後一旦はシートベルト着用のサインが消えていたことが推測できる。
(『疑惑 JAL123便墜落事故』(角田四郎著)82ページ)
離陸後、酸素マスクが降りてきて、いったん消えたベルトサインが再び点灯したのは、どの地点だったのだろうか?
伊豆半島の東側、河津駅近くからの目撃者の耳に〈ボーン〉と聞こえた時だとすると、辻褄が合わなくなることがありそうだ。
(その4へ続く)
18時30分に富士山の東側を通過したことに気付きにくい理由 その2
- 投稿No.22
- 投稿者:せきたに
- 投稿日:2021-05-17 22:09:46
「そして、そのとき、窓の外のやや下方に富士山が見えたのです。とても近くでした。
このルートを飛ぶときに、もっとも近くに見えるときと同じくらいの近くでした。
夕方の黒い山肌に、白い雲がかかっていました。左の窓の少し前方に見えた富士山は、
すうっと後方に移動していきます。富士山が窓のちょうど真横にきたとき、
私は安全姿勢をとって、頭を下げたのです。」
(「墜落の夏(吉岡忍 著)」に記されている落合由美さんの証言から)
上記、落合由美さんの証言内容から、
富士山の東側を通過したときの機体の位置は富士山の頂上からさほど離れていなかったことがわかる。
一方、伊豆半島東側の河津駅の北西の山側で畑仕事をしていた同町役場職員
渡辺穣さん(45歳)の証言は
「午後6時半前、ボーンという音で上空を見た。雲の切れ間からジャンボ機がふだんの二倍近い大きさで見えた。」
(『疑惑 JAL123便墜落事故(角田四郎著)』21ページからの引用)
とあるので、午後6時半前、伊豆半島の東側でボーンという音で地上から目撃された機体の位置はいつもの
高度(7,000メートルあたり)ではなく、ふだんの二倍近い大きさで見えるぐらいの高度であったことがわかる。
そして、これら二つの事柄は18時30分に富士山の東側を通過したことともつながってくる。
(その3へ続く)
18時30分に富士山の東側を通過したことに気付きにくい理由 その1
- 投稿No.21
- 投稿者:せきたに
- 投稿日:2021-05-15 21:18:56
18時30分に富士山の東側を通過したことに気付きにくい理由(わけ)は皮肉にも落合由美さんの証言の中にある。
「ゆっくりと左右に大きく旋回しているような動きがはじまったのは、酸素マスクをして、しばらくしてからです。
「パーン」という音から、たぶん10分くらいしてからのように思います。このころになって、
酸素マスクをはずしてみても、苦しさは感じませんでした。ただ、ほとんどのお客様がマスクをしていましたが。」
(「墜落の夏(吉岡忍 著)」に記されている落合由美さんの証言から)
落合由美さんの証言で「パーン」という音がしたと言われるのは離陸後のどの地点だったのだろうか?
次に、相模湾上空で音がしたとき、地上からの目撃情報があったことが『疑惑 JAL123便墜落事故』(角田四郎 著)の21ページには記されている。
〈目撃情報1〉
東伊豆、河津町のタクシー運転手、近持芳太郎さん(58歳)と渡辺武夫さん(51歳)は河津駅前のベンチで休憩中に、この瞬間を目撃した。
「海側の北東上空で雷のような〈ボーン〉という音がした。」
〈目撃情報2〉
(伊豆半島東側の)河津駅の北西の山側で畑仕事をしていた同町役場職員渡辺穣さん(45歳)の証言は
「午後6時半前、ボーンという音で上空を見た。」
落合由美さんが手記の中に記されている「パーン」という音がしたというその音と、
上記 〈目撃情報1〉 及び 〈目撃情報2〉 の中で目撃者たちが語られる「ボーン」という音。
この二つの音は、機内の落合由美さんの耳には「パーン」と聞こえ、地上からは「ボーン」と聞こえたのだろうという解釈になりやすいが、
これら二つの音は本当に同じ事象によって同一時刻に生じた音の、聞こえ方の違いだったのだろうか?
(その2に続く)