無題
- 投稿No.38
- 投稿者:宇佐木
- 投稿日:2021-07-30 19:20:00
元ご遺族の投稿拝見いたしましたが墜落原因について科学的アプローチされているのか甚だ疑問です
こちらの掲示板が反論を許さず不適切と判断されるのでしたら削除いたします
日航123便墜落事故:事故調査への疑惑と真実の追究 (その 2) ―旅客機墜落事故の調査機関とその業務の実態―
- 投稿No.37
- 投稿者:2021.7.24 8.12連絡会 『日航123便墜落事故調査 分科会] 会長 遺族 小田周二
- 投稿日:2021-07-28 21:35:45
一度、旅客機が墜落して多数の乗客乗員が死傷すれば、1980年代 日本では 運輸省、「事故調査委員会」の出番である。 この事故調査機関として、米国では、有名な「NTSB」がある。この事故調査機関が設立されたのは、1956年6月の旅客機2機の空中衝突事故が端緒であった。 2機の旅客機がグランドキャニオンの観光飛行で空中衝突事故を起こし、129名が死亡した。この時代は、航空行政は無く、会社単位の無線での交信による連絡で行われ、勿論航空管制はなかった。この調査は一人の航空専門家が調査し、ほぼ完璧な調査が行われ、どのような角度で衝突し、その責任まで、特定されている。米国人の科学的、技術的な調査は、この時の調査は とても、日航123便での事故調査とは 格段の差があった。NTSBは 1967年設立で 大統領直属の独立行政機関。
*日本の場合は、1971年の全日空機雫石戦闘機衝突事件が端緒で、その反省として、1974年に「運輸事故調査委員会」が設立されたが、運輸省の外局であり、独立した機関でなく、内局の「航空局」の支配下に
あり、独自に調査の権限はない。この形骸的な調査組織が日本に、旅客機墜落の事故調査に暗黒の暗雲が立ち込め、現在至っている。
*日本の航空行政を司るのが、運輸省の「航空局」でその業務は(航空会社の設立、運航路線、運賃、航空機の就航、修繕機の飛行許可、修理などに対する許認可、操縦免許交付、空路管制など)あらゆる面に
及ぶ。これらの許認可権限などを駆使した航空行政は、「乗客が目的地まで安全に到着すること」が第一の目的であるという。この安全運航の破綻が 旅客機の墜落による多数の乗客の死亡なのだ。この時にも、
航空局は 先頭に立って、事故原因の究明に立ち向かう。それは事故原因を明らかにして、航空安全のために、再発防止策を策定するためであるのだ。掛かる場合、航空局は 事故調査委員会に出動と、事故原因の
調査を行うことを命じるのである。
*掛かる調査体系での事故調査委員会の調査実績は、角田四郎氏の著では「日本の墜落事故の原因は事故原因が不明か、パイロットの操縦ミスになってしまう」と記述されている。即ち、事故原因が製造会社、運航
会社とか まして国、航空局などが 提起されたことはないのだ。 その上、事故調査の進め方について、山名正夫東大正夫教授が 「主席調査官が二人も更迭され、先ず、求めるべき結論が決められている」と
して、辞任しているのだ。(羽田沖墜落事故、昭和41年2月4日、発生、133名全員死亡)
この経緯から、独立性のない事故調査委員会は、航空局の指示で、先ず結論を与えられて、結論に合わせて事故報告書を作成する傀儡組織であることが 分かるのだ。
*この理由は明白である。事故報告書は 公文書であり、担当の大臣が、即ち、運輸大臣が受理することが不可欠の条件なのだ。最近、金融庁が 「会社員が退職した後、年金以外に 2,000万円が必要」との
調査結果を纏めて、財務省に提出したが、麻生財務大臣が この受け取りを拒否して、公文書とならなかった事態が発生しており、担当大臣の認定が不可欠であるのだ。勿論,各大臣は総理大臣から指名されて
おり、当然、総理大臣が認めることが 不可欠なのだ。
*この形骸的な事故調査システムから、作成された「事故調査報告書」を分析して、実証する。
事故調査は墜落の事故原因を特定することが目的である。然し、日航123便墜落事故では、その報告書には この墜落の事故原因が特定されていない。前橋地検も「事故原因が解からい」と結論している。
その上、墜落の事故原因が発生してから、墜落するまで、1分以内というのが業界の定説で、日航123便が(垂直尾翼)と(油圧装置)が破壊され、脱落したことが 事故調の事故原因だとの結論は 事故機が
その後 30分以上飛行出来たことで、垂直尾翼と油圧装置の破壊は 墜落の事故原因でないことが明白になった。
更に、事故機は墜落の危機に陥ったが、機長の必死の新規操縦技術の開発で操縦出来たこと、そして、横田基地に着陸を申請した事態のアントヌッチ中尉の証言、川上村レタス畑への不時着敢行で、操縦性と着陸
性が 実証されたこと、日航123便は墜落前、45秒前に「水平尾翼」「第4エンジン」が破壊脱落しており、「日航123便の 墜落の事故原因は この(第4エンジン)と(水平尾翼)の破壊脱落である」ことが
結論出来るのである。
*国は「自衛隊の(標的機の日航機への衝突)なる不祥事を隠すための乗客、乗員全員の口封じの全員殺害事件」を「機体の故障による墜落事故」に変更し捏造した内容が 運輸省の「墜落事故報告書」となったの
である。掛かる噓の 日航123便墜落事故の調査報告書(1987.7)は 日本国の公文書の資格がない。航空局は 意図的に再調査を不作為しているが 123便墜落事故の再調査を行う責務があり、遺族として
犠牲者の名誉のために 公式に再調査を要求する。
新刊書の紹介
- 投稿No.36
- 投稿者:管理人[ 管理者 ]
- 投稿日:2021-07-21 21:15:34
犠牲者遺族であり、8.12連絡会墜落事故調査分科会会長の小田周二さんが
『永遠に許されざる者』(文芸社 2021年7月15日 初版第1刷発行)
という書物を刊行された。
書物は
「墜落死の真実」を貴方方乗客乗員の霊前に報告する。
という言葉から始まる。
事故調査委員会が当初主張していた圧力隔壁損壊説はこの書物によって徹底的に論破されており、その先は自衛隊がどのようにこの墜落事故に関与していたのかについての自説が展開されている。
B5版で416ページの書物は手に取ってみるとずっしりと重く、内容は力作である。
18時30分に富士山の東側を通過したことに気付きにくい理由 その9
- 投稿No.35
- 投稿者:せきたに
- 投稿日:2021-07-05 22:03:24
『疑惑 JAL123便墜落事故』(角田四郎著)86ページには
生存者の一人、吉崎博子さんの証言が記されている。
「ドーンとものすごい音がして眼がさめました。同時に、白い煙がパアーッと入ってきます。なにがなんだかわかりませんでしたが、酸素マスクが上からおりてきたので、緊急事態が発生したことは理解できました」
この証言も18時30分に富士山の東側を通過したことに気付きにくい理由となっている。
吉崎さんの証言内容通りだとすると、酸素マスクがおりてきたのと、白い煙が客室内に入ってきたのがほぼ同時であったということになり、そのことが意味するところは、離陸後、初めての異変によって酸素マスクがおり、白い煙がほぼ同時に発生したことになる。
ところが、酸素マスクと白い煙に関する記述に関する事柄について、落合由美さんの証言は少し違う。
離陸後、しばらくして、(おそらくは客室乗務員によって子供達に向けてミッキーマウスのぬいぐるみが配られていた頃)〈パーン〉という音とほとんど同時に、酸素マスクが自動的に落ちてきた。となっているだけで、そのときの〈パーン〉に付随して白い煙のことについては言及されていない。
一方、白い煙のことについては、以下のように記しておられる。
「やはり〈パーン〉という音と同時に、白い霧のようなものが出ました。」
注意深く次の箇所を読むと、文中、「そのときは」と記されている、「そのとき」というのは離陸後二回目の〈パーン〉の時である。
「はじめはスチュワーデスもそれぞれの席に座って酸素マスクをしていましたが、しばらくして、お客様のマスクを直したりして、まわっていました。そのときは、エキストラ・マスクをひっぱって、口にあてていました。」
落合由美さんの証言によると、酸素マスクがおりてきたときには同時に白い煙のようなものは発生していない。酸素マスクの装着が終わった頃にもう一度異変が起きて白い霧のようなものが発生したと記されているので、酸素マスクがおりた時刻と白い煙のようなものが機内で目撃された時刻とには一定の時間差があったものと考えられる。
いずれの証言も貴重なのだが、吉崎博子さんの証言と落合由美さんの証言とを比較してみると、酸素マスクがおりてきたときと白い煙が入ってきたタイミングについて、一致していないものと思われる。
ただ、次の証言は、河津駅のあたりから、〈ボーン〉という音と共に相模湾上空を飛行するジャンボ機がふだんの二倍近い大きさで目撃されたということが、そのときの異変が離陸後初めてのものではなかった可能性を示唆しているものと思われる。
(『疑惑 JAL123便墜落事故』21ページ)
河津駅の北西の山側で畑仕事をしていた同町役場職員渡辺穣さん(45歳)の証言は
「午後6時半前、ボーンという音で上空を見た。雲の切れ間からジャンボ機がふだんの二倍近い大きさで見えた。」
(その10に続く)
Re: 日航123便墜落事故と事故調査への疑惑と真実の追究 (その一)
- 投稿No.34 元投稿No.33 日航機墜落事故犠牲者の遺族 小田周二さんへの返信
- 投稿者:管理人[ 管理者 ]
- 投稿日:2021-06-30 22:45:35
> *遺族小田は、2015年に『日航機墜落事故 真実と真相』を、2017年に「524人の命乞い」を出版して、
> 国民に、「墜落事故の加害者は 自衛隊である」ことを提起している。墜落事故でなく、事件だと帰結出来るのだ。
小田周二様、掲示板への投稿ありがとうございます。
墜落事故によってご子息と長女を一瞬で亡くされてしまった、ということは本当にご愁傷様でございます。悲しいことでそれ以上何とも言葉を紡ぐことが出来ません。
小田様の投稿文に関連してですが、『疑惑 JAL123便墜落事故』の中で著者の角田四郎さんも以下のように記されています。
「日航123便墜落事故」は、言われているように単なる「事故」ではないのだ。明らかに「事件」と呼ばれるべきものを内包している。
(418ページ)
そして、犯人を連想させるのは
墜落事故当日の夜、羽田空港で遺族達に詰め寄られた日航の重役が思わず語ったとされる言葉として、
「うちの機は、北朝鮮のミサイルに打ち落とされたんだ。今はそれしかわからん!!」
(115ページ)
私の推測した「疑い」が間違いなら、現実に現れている事象はどう考えればよいのか?
間違っていないなら、この事故の背後に一体なにが隠されていて、事故の全てを歪曲し、全く成立し得ない原因をデッチ上げ、墜落地点と機体を半日以上も隠し、不都合な証拠物件の全てを隠蔽、消去して外国の企業たるボーイング社にまでその手助けをさせる巨大な力が存在したことになる。
(397ページ)
という記載があります。
小田様の見解では日航機墜落事故は事故ではなく、事件であり、自衛隊が事件を起こした加害者であったとはっきりと記されていますが、自衛隊というと、隊員の佐間2曹が川上慶子さん(当時12歳)を抱えてヘリコプターにつり上げられている姿が多くの人の脳裏に鮮明に焼き付いているのではないかと思われ、その自衛隊が事件を起こした加害者であったと仰られると信じ難い気持ちが起きてまいります。
小田様は独自の思惟を積み重ねられた結果、事件の加害者が自衛隊であったという結論となられているようで、それを否定するものではございませんが、一般的には、まさか自衛隊が自国民を積極的に殺すようなことは企てないだろうという強い先入観があるのではないかと考えます。
小田様にはぜひとも今後の投稿をいただける場合に少しずつで結構ですから、そのように結論付けざるを得なくなられた根拠やプロセスについて誰にでも理解できるように記していただけると幸いでございます。
日航123便墜落事故と事故調査への疑惑と真実の追究 (その一)
- 投稿No.33
- 投稿者:日航機墜落事故犠牲者の遺族 小田周二
- 投稿日:2021-06-29 22:09:58
8.12連絡会 「日航123便墜落事故調査分科会 会長」として、説明する。
小田は 日航123便墜落で、愛する子供達、浩二(15歳、高校1年,陽子(12歳、中学1年)の
二人を一瞬にして失った。そして、事実 「520名は 殺された」ことが明確に認識出来た。
遺族は 肉親の死亡事態に衝撃を受け、悔悟と供養に没頭してきた。あまりにも強い衝撃で、遺族には
人生が閉ざされた気持ちになったのだ。
墜落の事故原因などについては、事故状況、証拠、多くの状況証拠は、全て、国、運輸省、自衛隊が所有し、
我々遺族、国民への開示はないのが実情である。まして米国にように、途中で、進捗を公表することのなく、全て
秘密処理がなされているのだ。(今後の事故調査の運営上、改善すべき課題)
まして遺族は掛かる墜落事故に遭遇することはなく、事故の経験、知識もないのだ。事故調査は 被害者である遺族が 行うことは正しく行えないことを考えると、関与を行わないのが 原則である。
然し、事故でなく、国、自衛隊が関与した事件の場合は、事故原因が不明で 国が隠蔽した時には事故遺族の出番が必要になるのが 現状なのだ。
*事故から、20数年経過したが、区切りの、けじめの30年の期限が直ぐ近くに迫っており、遺族小田は、ある事故遺族の活躍に啓発されて、事故の真実を明らかにしようと決意したのである。
それは、ユナイテッド航空UA811便の貨物室ドア脱落事故で、乗客9名が吸い出されて、死亡した事故で、
この貨物室のドアの破壊脱落の原因は米国NTSBが「作業員が取り扱いミスとの結論を出した」が、この事故
で 愛する一人息子を失ったケビン・キャンベル夫妻は 途中の尋問で得た資料から、結論に疑問を抱き、本格的に調査と研究に奔走して、技術者キャンベル氏は「ドアのオリジナル設計上のミス」との結論をNTSBに 提出して、再調査を要求した。NTSBは、この提起を受けて、太平洋の海底、4,200mから、ドアを引き上げて、調査して、「電気系統の欠陥である」との結論に至ったのだ。
当のキャンベル夫妻は、「息子の死を無駄にしないためにも、事故原因を徹底的に調査して、811便の事故の真実を明らかにする。これは 二度と同じ事故を引きおこさないためには 不可欠である。遺族は真の事故原因として、亡き肉親の墓前に報告することが 最大の供養である」と語っており、犠牲者への心情溢れる。遺族の崇高な明言であった。 この言葉に触発されて、遺族小田は 忽然と真実の追及に立ち向かったのである。
*遺族小田は、2015年に『日航機墜落事故 真実と真相』を、2017年に「524人の命乞い」を出版して、
国民に、「墜落事故の加害者は 自衛隊である」ことを提起している。墜落事故でなく、事件だと帰結出来るのだ。 次回は 事故の調査、飛行、墜落などについて、説明を予定します。
18時30分に富士山の東側を通過したことに気付きにくい理由 その8
- 投稿No.32
- 投稿者:せきたに
- 投稿日:2021-06-27 22:46:12
18時40分過ぎという時間帯に大月という場所の上空を大きく円を描きながら低空で飛ぶジャンボ機が角田四郎さんによって目撃されている。
18時30分に富士山の東側を通過したのだとすれば、そこから大月までどうして10分以上もかかっているのだろうか。
犠牲者 河口博次さん(52歳)の遺書
飛行機は まわりながら
急速に降下中だ
富士山の東側を通過するとき、機体は大きく横方向に大きく揺れていた。
その後、すぐではないかもしれないが、大月上空に至るまでのところで、機体は円を描きながら、ということは前進した箇所と後退した箇所があったことになり、螺旋状の軌跡はを描いて降下しながら大月に近づいて行ったので、まっすぐ飛行するときの倍ぐらいの時間がかかったものと思われる。
(その9に続く)
Re: 事故ではなく事件だ
- 投稿No.31 元投稿No.30 佐藤スポーツ整体さんへの返信
- 投稿者:管理人[ 管理者 ]
- 投稿日:2021-06-17 22:49:32
佐藤スポーツ整体さん投稿ありがとうございます。
> 2)プラザ合意に反対していた関西の財界大物4名
> 3)グリコ森永の実行犯
> 4)松下トロンOSの技術者17人
墜落した旅客機にはそのような人たちが乗っていたのですね。
ひとつ質問をさせていただきます。
一般的には墜落した旅客機には
2)プラザ合意に反対していた関西の財界大物4名
3)グリコ森永の実行犯
4)松下トロンOSの技術者17人
のような人たちが乗っていた。
という表現を取るのが通常ではないかと考えますが、
佐藤スポーツ整体さんの投稿文では
あの墜落事故は
2)プラザ合意に反対していた関西の財界大物4名
3)グリコ森永の実行犯
4)松下トロンOSの技術者17人
といった人たちを殺すのが目的だった。
と表現されているわけですが、
そうすると、墜落事故を仕組んだ側にとっては、その人たちが一緒の飛行機に乗り合わせることがあらかじめわかっていたということになりますが、そういう解釈で合っていますでしょうか?
事故ではなく事件だ
- 投稿No.30
- 投稿者:佐藤スポーツ整体
- 投稿日:2021-06-17 12:36:05
池田昌昭さんから紹介され、このサイトを見つけました。
当時の社会情勢からして怪しいと言わざるを得ない。
1)プラザ合意を呑ませるために中曽根を脅迫するため
2)プラザ合意に反対していた関西の財界大物4名を全員暗殺するため
3)グリコ森永の実行犯を殺害し証拠隠滅するため
4)松下トロンOSの技術者17人を抹殺するため
5)JAL123便が核弾頭を輸送していることを米軍が突き止め、ミサイルで攻撃した
6)核弾頭輸送を隠蔽するため、自衛隊は日航機を御巣鷹山までおびき寄せ撃墜した
7)JAL123便の生存者は数十名以上いたが、ほぼ全員VX毒ガスなどの手法で殺された
知られたら困るから隠蔽したのです。
18時30分に富士山の東側を通過したことに気付きにくい理由 その7
- 投稿No.29
- 投稿者:せきたに
- 投稿日:2021-06-13 14:40:31
落合由美さんの手記の中で、18時30分に富士山の東側を通過したことに気付きにくくさせている最大の理由はおそらく次の箇所だろう。
「そのうちに酸素が出なくなりました。いつだったか、私がフライトをしていたとき、お客様から、酸素マスクは何分くらいもつのか、とたずねられたことがありました。全員が吸った場合、18分くらい、と計算したことがあります。そのくらいの時間が経過していたのかもしれません。でも、ほとんどのお客様は、そのままマスクをしていました。」
上記の記載があって、その後に富士山の東側を通過したことが記されているので、富士山の東側を通過したときには既に酸素マスクから酸素が出なくなっていたことは明らかだ。
問題なのは
「全員が吸った場合、18分くらい、と計算したことがあります。」
と記されているころで、これをそのときのフライトにおいて実際に酸素マスクが18分間もったのだと解釈すると間違ってしまう。
実際に酸素マスクが18分間もったと解釈すると、離陸後最初の異変が起きて酸素マスクが下りたのが18時20分頃だとしても、富士山の東側を通過したのは18時38分よりも後だったことになる。
それで何が都合が悪いのかと言われるかもしれないが、犠牲者の村上良平さんは遺書に、
機体が大きく左右にゆれている
18・30 急に降下中
と記されている。
一方、生存者の落合由美さんは
「飛行機はあいかわらず旋回をくり返すように左右の傾きをつづけます。振動などは全然ありません。とにかく、くり返し、左右に傾いているという揺れ方がつづきました。」
と記されている箇所があり、その表現は
村上良平さんの
機体が大きく左右にゆれている
の箇所とピッタリと一致しているが、落合由美さんはそのあたりを飛行しているときの情景描写として、
「私の席に近い左の窓から見えたのは、まっ白な雲だけでした。かなり厚い雲で、地上は見えませんでした。」
と記されている。
更に、酸素マスクの装着に続いてほとんど間をおかずにライフベストの装着が始まったようだが、そのあたりでも
「私は羽田にもどれればいいな、と感じていました。しかし、まだ雲の上で、高度も高いし、ちょっと無理なんじゃないかな、とだんだん不安になってきました。」
と記されており、酸素マスクの装着からライフベストの装着がはじまるまで一貫して機体が雲の上にあったことが記されている。
そして、その延長として、
揺れはいっそう大きくなりました。もう立っていることはできないほどです。救命胴衣をつけ終わってすぐに、ほとんどいっせいに安全姿勢をとりました。
とあり、その言葉に続いて
「安全姿勢をとる直前、窓の外のやや下方に富士山が見えたのです。とても近くでした。このルートを飛ぶときに、もっとも近くに見えるときと同じくらいの近くでした。夕方の黒い山肌に、白い雲がかかっていました。左の窓の少し前方に見えた富士山は、すうっと後方に移動していきます。富士山が窓のちょうど真横にきたとき、私は安全姿勢をとって、頭を下げたのです。」
という言葉が一連の文章として綴られている。
(その8に続く)