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御巣鷹山の悲劇
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> 胸肩さんへ > 『日航123便 墜落の新事実』の著者である青山 透子さんは博士号の資格に基づいて博士論文も記されるということですが、そのような方がどうして落合証言と一致しないと考えざるを得ない目撃情報を事故機(JAL123便)そのものだと認めてしまわれたのかについては疑問に感じている次第です。 > 『日航123便 墜落の新事実』(青山 透子 著)河出書房新社 > 104ページ〜105ページ > 2015年9月、「青山さんに聞いてもらいたい目撃情報がある」ということで突然出版社を訪ねてきてくれた女性がいる。その人は1985年8月12日に目の前を異常なほど低空で飛ぶ日本航空123便を見た、とのことだった。担当編集者がたまたま在席していたが、次の予定があって私の代わりに少し話を聞いて職場の名刺と連絡先を受け取り、そのままになってしまっていた。今回の出版が決まって連絡をすると快く対応してくださり、改めて話を聞く機会を得た。 > 現在は東京にて福祉関係の仕事をしていらっしゃる小林 美保子さんは、1985年当時22歳で、実家から静岡県藤枝市にある運輸関係の会社まで車で通勤していた。 > 8月12日のあの日は、お盆前で仕事が忙しく、いつも17時半で終わる予定が18時30分になってしまった。 > 「タイムカードに打刻をして階段を下りて外に出た瞬間、『キャーン、キャーン』と二度、すさまじい女性の金切り声のような音を聞いた。絶叫マシーンに乗った人の悲鳴のような凄い高音で、驚いて頭上を見上げると目の前を低く右斜めに傾きながら飛行しているジャンボジェット機が見えた」 > 「ちょうど会社の敷地内で前方に東明高速道路が見える位置だった。自分の背中側から飛んできたジャンボ機は白い塗装に日航のシンボルカラーである赤と紺の線が入っていた」 > 「駿河湾の方向から富士山のある北の方角に向かって、ゆっくりと右旋回しながら飛行しており、はっきりと窓も見えるほど高度が低い状態だった。飛行そのものは安定している感じだった。それにしてもいつもの航空路ではないこの場所で低空飛行のジャンボ機を見るとは思ってもいなかった」 > ※『落合証言』では以下のような流れの中で雲の上にある機体から「窓の外のやや下方に」富士山を目撃されているのは明らかで、しかも、角田四郎さんによる大月上空での目撃談と、長野県川上村の多くの住民たちの目撃談とを考え合わせると、雲の上から富士山を「窓の外のやや下方に」見ることが出来る機会は、離陸から墜落までの間で一度しかなかったはずです。 > (落合証言) > 「私は羽田にもどれればいいな、と感じていました。しかし、まだ雲の上で、高度も高いし、ちょっと無理なんじゃないかな、とだんだん不安になってきました。」 > 「そして、そのとき、窓の外のやや下方に富士山が見えたのです。とても近くでした。このルートを飛ぶときに、もっとも近くに見えるときと同じくらいの近くでした。夕方の黒い山肌に、白い雲がかかっていました。左の窓の少し前方に見えた富士山は、すうっと後方に移動していきます。富士山が窓のちょうど真横にきたとき、私は安全姿勢をとって、頭を下げたのです。」 > ※今更ながらですが、1%未満の生存者の中に客室乗務員がいたことは奇跡中の奇跡であったと共に、その客室乗務員が語った証言は事故原因を考える上で極めて重要な意味を持っていたのです。
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