御巣鷹の真実 日航ジャンボ機墜落事故(時事)

  • 投稿No.2899
  • 投稿者:胸肩
  • 投稿日:2023-07-22 09:57:32

午後6時40分ごろだった。羽田空港ビルの4階で全日空の担当者と会っていた社会部羽田担当・清水 喜由(35)のポケットベルが3回鳴った。札幌支社時代から航空専門記者を目指し、ネットワークを作ってきた清水は、羽田でも空港関係者との間で何かトラブルがあったら知らせてもらう約束をしていた。ポケットベル3回はその符丁だった。それは1985年8月12日。ポケベルの合図は、前例のない悲劇の始まりを知らせていた。

 「トラブルだろうか」清水は全日空の担当者と別れ、すぐに記者室に戻った。そこに他社の記者の姿がない事を確認すると、その場から親しくしている管制官に電話を入れた。「日航123便がフラフラしている。羽田に帰ると言っている」レーダー室も「確かにこちらに戻りそうだ」と言う。

 「エアターンバックかな。長野方面から東京に戻るルートがあった筈だ。それに乗って羽田に戻るのだろうか」清水はビル2階の航務課(当時)に下りてみたが、「分からない」という。航務課はいざという時、「救難調整本部」(RCC)となるセクションだが、課内は静かで慌てた様子もない。

しかし、午後6時59分、衝撃的な情報で状況は一変した。「123便がレーダーから消えた」清水は親しい課員に頼み込み、123便の行き先である大阪空港の管制部に電話をかけて貰ったが、着いていない。東京航空交通管制部にも聞いたが、「レーダー上には写っていない」という。

(.レーダー上では墜落が6:57、6:59、7:04とレーダー上で、機影が消えたり、点いたりしており、既に時間稼ぎをしていた事が、明らかです)

清水は「大変な事故になっている」と確信し、午後7時9分ごろ、航務課に来ていた空港長に「今からフラッシュを打ちます。ニュースが出ます」と通告。急いで電話がある記者室に戻った。

 午後7時11分ごろ社会部に連絡。緊張を押し殺し、努めてゆっくりと「フラッシュをお願いします」と伝えた。歴史的な一報を受けたのは、担当の時間を終えて帰りかけていたデスクの天野 岩男(41)だった。異常事態の発生をつかみ、空港ビル内を走り回って取材していた清水の息づかいは荒く、受話器からもそれははっきり聞き取れた。

日本航空123便ボーイング747SR型機の機影がレーダーから消えた時刻は午後6時56分。フェルトペンで大書きされた2行のフラッシュが流れたのは午後7時13分だった。全国の報道機関は時事通信のフラッシュで大規模航空機事故の発生を知り、騒然となった。NHKはフラッシュの13分後、午後7時のニュースの最後に「只今、入ったニュースです」と突っ込んだ。

「長野県警に入った連絡によると、長野県南佐久郡川上村の女性が『大きな飛行機が旋回しながら炎を上げて墜落、同郡南相木村か群馬県寄りかの山中に黒煙が上がった』と目撃証言」

会員限定記事 2010年 2/8日15時拠り

具体的な事象に就いて

知りたい方は此方も是非御覧下さい。

http://www.asaho.com/jpn/bkno/2018/0813.html

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