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掲示板設立の趣旨
御巣鷹山の悲劇
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JAL123便墜落事故発生からもうすぐ40年が経過しようとしています。 JAL123便が御巣鷹の尾根に墜落して、多くの人命が失われたのは生まれる前の事柄だったので実感が持てないという若い人も増えてきました。 今回は掲示板を運営してきた中で印象に残っている事柄の一つを記しておきたいと思います。 ・19時前にテレビ画面に 「JAL123便がレーダーから消える」 というテロップが流れたのを見たという証言が複数の方によって投稿されてきました。 テレビ局側が19時前にテレビ画面に上のテロップを流すためには段取りを逆算してみると18時40分頃にはレーダーから消えていないと、19時前にそのテロップを流すことが出来ないはずだということが併せて言われてきました。 18時40分頃というと、『疑惑 JAL123便墜落事故』の著者である角田四郎さんが、山梨県大月で子供会のサマーキャンプに参加している途中、土砂降りの雨の直後、夕食の準備を終えたタイミングで上空を見上げたとき、一列に並んだ窓がくっきりと見えるほどの低空飛行で旋回している、航空機を目撃したときの一部始終が同書物に詳細に記されています。 『疑惑 JAL123便墜落事故』54ページ~55ページ 8月12日は日程4日目であった。この日は私の指導で近くの倉岳山(990メートル)へのハイキングに出かけた。夏の陽がジリジリ照りつける暑い日であった。どうにか全員無事に全行程を歩きぬいて桂川河川敷に近いキャンプ場にたどり着いたのが午後3時過ぎ。 4時頃、突然、空がまっ暗になり、バケツの水をひっくり返した様な大ツブの雨がたたきつけ、カミナリが近くで鳴り響いた。約1時間話し声もかき消さんばかりの雷雨が続き、降り始めと同じ様に突然やんだ。 雨が上がった空は一変して、澄みきった青空が広がり涼風を運んできた。 夕食を少しでも早く取り、子供が楽しみにしていたキャンプ・ファイアーを可能な限り実行してやろうということになり、私が中心になって夕食作りを始めた。 その最中キャンプ・ファイアーもやることを決定。準備があるので、開始を40分遅らせて、7時40分とした。すでに6時をまわっていた。休む間もない。 大人達の食事をいっきに作り上げたとき、私の身体は服のまま泳いだ様に全身汗みどろとなっていた。さし出されたジュースをのみほして時計を見ると、6時40分近く。間に合った・・・・・・という安堵と充実感で、その時の時計の針を今もハッキリ憶えている。 自分は夕食を即座に口にする気持ちにはなれなかった。着替えも必要である。 私はとりあえず涼を求めて、桂川の川辺にある高台に歩を進めた。そして大きく手を広げて天を仰いだその時、私の目に場違いと思える大きな飛行機の機影が飛び込んできた。 ほぼ南を向いて立っていた私の左手に、北から南へ向かって、少し右に傾いた民間航空機であった。民間機と瞬時に思ったのは、窓が一列にたくさん見えたからである。 見ていると、すぐに水平飛行に戻り、ゆっくりと南下して行く。 大きな飛行機という印象は、やたら窓がはっきり見えていたからである。高度も、それゆえに低く感じたし、速度も実にゆっくりに見えていた。 「あれぐらい低いと、乗っている人もこっちを見ているかも知れないな」と思い、上げた手を機に向かって振ってみたりした。 「あの高度、速度は、これから着陸する感じだったが」とも思いながら、私は振り返って自分のバンガローに向かった。 着替えて食事を始めたのは7時すぎ、大人達何人かは、すでにキャンプ・ファイアーの準備で河原に向かっていた。 ・生存者であり、当日非番であった客室乗務員の落合由美さんの証言によると、ライフベストの装着指導が完了した直後、左側のやや下方に富士山が見えたというのです。 「そして、そのとき、窓の外のやや下方に富士山が見えたのです。とても近くでした。このルートを飛ぶときに、もっとも近くに見えるときと同じくらいの近くでした。夕方の黒い山肌に、白い雲がかかっていました。左の窓の少し前方に見えた富士山は、すうっと後方に移動していきます。富士山が窓のちょうど真横にきたとき、私は安全姿勢をとって、頭を下げたのです。」 この証言を角田四郎さんの目撃談と照らし合わせると、角田四郎さんによって目撃されたときの機体が左下に富士山が見えたときの機体でないことが明らかです。 落合証言では、事故機は富士山の東側を通過してから大月上空に向かったことを示唆していますが、発表された航跡図では富士山の左側を通過した後、大月上空に向かったことになっており、航跡図の通りだとすれば、富士山が左側のやや下方に見えた位置がどこであったのかを考えるだけでこの事故は謎めいてくるようです。
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